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声なき苦しみ
言葉にしたいほどの苦痛や仕打ちを受けても、公にすることで失うものが多く、沈黙を強いられる。これがパワハラの恐ろしさだ。被害者が事実を公にすると、なぜか被害者が批判されてしまう。これがパワハラの現実だ。このような犯罪の類はいくつか容易に思い浮かぶ。具体例を挙げたいのは山々だが、個々の苦痛を容易に例え話にすり替えてしまうのは心が痛むので、避けよう。
パワハラに対してどのように対処するべきか、患者さんと接している時間以外はそればかり考えてしまうが、答えが出ない。パワハラは、私の24時間すべてを奪っている。
当初は、これがパワハラかどうかもわからず、先日あげた厚労省のパワハラ類型を参照し、なんども読み返しては思い悩んだ。これは時間の無駄だ。心が苦しい。この苦しさだけは事実だ。上司による指導が的を得たものであれば、その時は辛くとも後で感謝の気持ちが湧くはずである。そのようなこともなく、心がどんどんボロボロになっているということが事実なのだ。その状況を知っていて、見て見ぬ振りをしている人々はハラスメントの加担者だ。
パラハラにあったら、されたことを記録しろとのアドバイスがあるが、記録して、それを改善に導く方法があるのか、果たして疑問だ。私は医局長に報告したが、スルーだった。病院カウンセラーにメールしたが返事がなかった。嫌がらせを受けた記憶が頭の中で何度も繰り返され、夜も眠れない。記録したところで、果たしてそれが改善につながるのだろうか。裁判で訴えられる加害者はどれほどだろうか。医者の社会じゃ、少なくともその島じゃ働けなくなるだろう。現に、私はパワハラを医局に訴えても無駄であった。逆にますますパワハラは酷くなった。結局、私は医局を辞める決心をしたが、ここぞとばかりにハラスメントまつりだ。
私がもし死んでしまったら、私の日記はパワハラの証拠になるだろう。
しかし、私の家族はそれ相応の犠牲を払うことになる。そんな犠牲を払っても、死んだ人は帰ってこない。
私の、上司に対する見方が間違っているのではなかろうか、私が悪いのではなかろうかと考えたこともあり、試行錯誤した。自分が嫌われているのなら、上司に好かれるような行動をしようと頑張った。自分の惨めな姿を思い出すだけで涙が出る。パワハラ上司に誕生日プレゼントを渡し、心を押し殺してお祝いの言葉をかけた。そのほか、パシリのようなこともした。しかし、心が苦しいのだ。
パワハラする人自身が、何かを抱えているのかもしれないとさえ考えたが、やはり苦しい。パワハラ上司は、生活上のストレスが際限なく、私のような立場の者をターゲットにして楽しんでいるんだ、可哀想な人なんだと思うことにしようと考えた。しかし、苦しいのだ。
人格を否定される言葉を日常的に浴びて、楽しく生活できる人がどれほどおられるだろうか。医局での私は私ではなかった。すっかり萎縮して、脳もこころも小さくなり、まるで自分ではなくなってしまった。病院の中での唯一の安らぎは患者さんと接している時だけだった。
パワハラに対してうまく対処するのは難しい。10年近く悩み、パワハラに耐え続けた私の結論は、環境を変えるのが一番だということだ。本当は、もっと早く決断すべきだった。無駄にした時間をもっと他のことに使いたかった。しかし、私はその判断をするほどの心の余裕がなかった。