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96.9:31 それを「好き」だと思い込んだわけは(アートの話)

え、昨日が立秋ですか?
はい。立秋でしたよ。
もう秋ですか。
そうですね、暦の上では。

いやいや、蝉はずっと鳴いているし、猛暑が続いている。
まだまだ夏だと思いたい。

この夏は、大相撲七月場所、パリオリンピック、甲子園と(私にとっての)夏の風物詩を見続けている。
非常に楽しい日々である。
スポーツ観戦は、全て家の中で完結できる趣味である。
こう暑いと、外出するのが億劫で億劫だ。
本当に暑すぎませんか?
この夏は。

離れて暮らす両親も、今年の夏は命の危険を感じたのか、子のいうことを聞き入れ、エアコンをきちんと使用している。
一安心である。


アートの話をしたい。
どんな人にも「好み」というものがあると思う。
私にももちろんある。
昔は西洋の古典的な絵画が好きだった。
ポストカード、メモ帳やノートの表紙などが美しい西洋絵画であると買い求めていた。
天使などの宗教的なモチーフが特に好きだった。
きっと当時好きだった漫画に影響されたのだと思う。
美術館でそういった絵画を実際に目にしたのは、大学生になってからだった。
そして、24歳の時、初めてルーヴル美術館でモナ・リザをはじめとした西洋絵画を実際に見た。
あまりの絵の多さに圧倒された。
勿論、絵自体の迫力にも。

若い頃はずっと、自分は「そういう」絵が好きなんだと思っていた。
例えば、通っていた高校の近くに現代アーティストの美術館があったのだが、ただ通り過ぎるだけで入ったこともなかった。
ただの風景になってしまっていた。
西洋古典絵画以外は全く眼中になかったのだ。

しかし今はというと、その傾向が変わってきている。
現代アートの展覧会によく行くし、現代アーティストの作品に物凄く興味を持っている。
同時に、西洋古典絵画にももちろん惹かれるし、更には様々なアートの存在を認識して受け入れるようになった。

何故だろう。
ただ単に「好み」が変わったのだろうか。

よくよく考えてみると、そうではなかった。
私は西洋古典絵画が好きだと思っていたが、そう「思い込んで」いただけなのかもしれない。

そのきっかけを思い出した。
小学校6年生の頃の担任が、図画工作の授業で面白い絵の手法を教えてくれた。
塗るというより、筆をトントンと置いて、点で全体を表現する方法である。
私は、それが好きだったし得意だった。
描いた絵も先生にほめてもらった。

時は流れ中学校1年生の夏休み、風景画の宿題が出た。
私は何も迷わず、その手法で絵を描き、夏休み明けの美術の時間に、その宿題を発表した。
その時、私は愕然とした。
自分のような絵を描いた生徒は、誰もいなかった。
小学校の同級生でさえもである。
私の描いた絵を見て、他の生徒はくすくすと笑った。
勿論教師は「面白い」とほめてくれたのだが、私にとっては苦い思い出となった。
他の生徒が描いた、よくある風景がが「普通」なのだと理解してしまった。
変わった絵は「間違い」なのだと。

そこから、美術の時間では同級生と同じような絵を描くようになった。
また、美術史を学ぶ過程で西洋絵画が最も美しいものであり、特にその古典的な絵が認められているもの、素晴らしいものであると認識するようになった。
それこそが、環境による刷り込みであり、「思い込み」であるとは気づかなかった。

「好き」や「好み」ではなく、それしかないと「思い込んで」しまったのだ。

幼い頃、母親が山下清展に連れて行ってくれた。
とても感動した。
山下清の絵はいわゆる西洋古典絵画ではない。
しかし私は彼の絵、アートが好きだった。
アートを見て感じるそういった本当の「好き」「美しい」という気持ちを、私はあの中学の授業の時に置いてきてしまったのだ。

今、先述の通り、私は様々なアートに興味を持っているし、美術館や展覧会に多く足を運ぶようになった。
そこに「好み」は確かにある。
しかし「思い込み」「偏見」からはできるだけ距離を置こうとしている。
そうすることで、本当にアートの世界が広がった。
好きだと思える作品に出合える機会が増えた。
アートを心から楽しんでいる自分がいる。

日常には、そういった「思い込み」のなんと多いことか。
改めて、そう思った。
「普通」、「当たり前」。
そういう言葉が嫌いだと思っていた自分自身も、他人や社会の「常識」に囚われていた。
それは、本当に怖い事である。
少し話が飛躍した。
とにかくアートに関わらず、様々な「思い込み」から離れて、物事を見たい。
そして、自分の心が感じる「好き」を大事にしていきたい。



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