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「悪人」と音楽

「悪人」という映画をご存じでしょうか。
2010年、妻夫木聡さんが主演された映画です。
ワタクシはこの映画に大変な衝撃を受けました。

この映画は現代社会に鋭く問題提起しています。
誰が悪人なのか、どういう悪人なのか、そもそも悪とは何なのか。
誰もが悪人であるとも言えるし、誰もが被害者であるとも言える。
目に見える闇を背負っていることもあれば、
自分で気付けない闇を背負っていることもある。
重たい現実と薄っぺらい正義。
はしゃぐ向こう側にある陰と、孤独に照らされる僅かな光。
そんないくつもが交錯して、物語は問いかけるのでした。

ワタクシは何に衝撃を受けたのか。
それはもちろん、この映画のストーリーを始めとする、作品としての素晴らしさにもあります。
しかしそれ以上に衝撃を受けたのは、映画というもののスケールの大きさ、懐の広さでした。

こういったテーマ、こういった問いかけをエンターテイメントとして表現出来るのは、映画ならでは、映画でしか出来ないことでしょう。
これを音楽でやったらどうなるのか?
きっとおそらく、受け入れられないか批判の嵐ではないでしょうか。

かつてワタクシは、メッセージ性が強かったり、プロテストソング的で心の闇をテーマにしたような重たい歌を好んで作っていた時期がありました。元々ブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウン、ボブ・シーガーが大好きでしたし、そもそも歌を作り出したのは、自分の心の叫びだったようなところもあるので、そういった重たいテーマの曲に違和感はありませんでした。

しかし、当時の関係者や先輩ミュージシャン、その他諸々の方々から、ワタクシの作った重たい歌達は「こんな歌、誰も聴かないよ!」と異口同音に非難され、誤解されまくったのでした。そのたびワタクシは「分かってねぇなぁ」と心の中で呟いていました。

例えばブルース・スプリングスティーン。
「Nebraska」という曲がありますが、これはどうにも救いようのない歌です。ゲームの様に人を殺す殺人鬼が主人公で、その視点から語られている歌詞は衝撃的です。しかしスプリングスティーンがそんな人であるとは誰も思っていませんし、聴く人が殺人鬼の気持ちに共感しているとも思えません。ではどのように聴いているのかというと、逆説的にそのメッセージを受け取っている、ということではないでしょうか。少なくともワタクシはそうです。
歌の世界のメッセージはもちろんあるのですが、その歌詞にメロディーが乗り、楽器類が音を奏で、スプリングスティーンが歌うと、それがエンターテイメント、娯楽になるのです。娯楽として楽しみながらもメッセージや問題提起を受け取れる、音楽の素晴らしさはそこにあります。

しかし、それを分かって欲しいと言われても無理があるでしょう。ブルース・スプリングスティーンだから出来るということもあります。それをワタクシがやったところで、単なる捻くれ者の暗い歌にしかならなかったのかもしれません。今ならそれがよく分かります。
それは若気の至り、自分の世界が狭かったんですね。

しかしこの「悪人」という映画は、見事に問いかけとエンターテイメントを両立しています。自分が音楽でやりたかったことはこれだったんだな、とこの映画を見て思いました。しかし同時に、それは音楽では出来ないな、とも思いました。あくまでも自分は、ということですが。

それ以降、作る歌が変わったと思います。
ワタクシのここ10年くらいの曲は、基本的に人の綺麗な部分だけを歌にしようと思って制作したものです。しかし最近、ほんのちょっとだけ泥にまみれても良いのかな?とも思っています。それでも、20代30代の頃に作っていた重たい歌達は、今後も歌ったりリメイクすることは無いでしょう。

生きている限り、問いかけは常に必要です。社会が常に正しい訳ではないし、マジョリティが間違っていることだってある。そもそも正しいとは何なのか。答えはひとつでは無いかもしれないし、永遠に見つからないものなのかもしれない。それでも常に問いかけ、自分はどうあるべきかを考える。それが「生きる」ということなのではないでしょうか。
「悪人」という映画は、その確認を促す映画でもあるのです。

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