2024年1月15日 「消費的に読む」

2限の講義がオンデマンドに変更になったのを知らずに、大学に行ってしまった。映画館やカラオケにも行けたけれど、なんとなく行く気になれなくてサークルの部室でぐだぐだした。一人きりだったけれど、読書にも集中できなかった。

最近、自分が読書が苦手であることに気づいた。物心ついた頃からほぼ毎日何かの本を読んで生きてきたし、暇さえあれば本を読むという癖がついている。でも、これまでに読んだ数千冊の本のうち何冊を、ちゃんと集中して読めただろうか? 部室で一人でいても集中できないのに、「暇さえあれば」の癖のせいで、授業の合間の10分休みやテレビが流れているリビングで読んでいた。集中できるわけがない。

でも、そんな中でも大好きな本というのはあり、そのことは良いことだなと思う。と同時に、これから先そのような大事な本ができるのか、読んだところで大事に思えるのか、と不安にも思う。少年時代に比べて集中して読めるようにはなったが、集中してもなお消費的に読んでしまう癖もついてしまっているのではないか。

「消費的に読む」というのは、私の場合、その本を読み始めた瞬間から、「その本を読むこと」でなく「その本を読み終わること」が目的になってしまうということ。この二つは微妙に違うのだ。読み始めた途端、そうしたくないのに、読書がタスクになってしまう。それでも楽しく読める本はあるけれど、これは辛いことだ。世の中には「味読」という言葉がある。

みどく【味読】─する(他サ)
文章の内容をよく味わいながら読むこと。「漱石の小説を─する」↔︎卒読

三省堂『新明解国語辞典 第七版』、p.1455

「味読」という言葉を体感しながら生きてみたいと思う。

ところで、対義語の「卒読」という言葉の方は初めて知った。

そつどく【卒読】─する(他サ)
①本を急いで(ざっと)読むこと。↔︎熟読・味読 ②読み終えること。読了。

三省堂『新明解国語辞典 第七版』、p.878

私の言う「消費的に読む」とは違うらしい。別に急いでいるわけではない。むしろ急いで本を読むことは苦手だ。

帰宅後、割と長いこと寝てしまい、12時頃に起きてしまった。またもや生活リズムはがたがただ。自分の体と心が、一番思うようにならない。


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