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月にキャラメルソースを塗って(短編小説)
月にキャラメルソースを塗りたい。
キャラメルソースは、出来るだけ甘ったるいやつがいい。口に入れた瞬間、歯が溶けそうになるやつ。月そのもの味なんて知った事ではない。とにかくキャラメルソースが甘ければ良いのだ。
こんな事を考えてしまうほど、疲れている夜だった。仕事というものがこんなにも辛いとは、子供の頃は想像できなかった。毎日帰って眠り、朝になれば会社に行くだけ。ただその繰り返しで、他は何もなかった。このまま生涯が終わるのだなと思うと、こんな思いをしてまで生きていなくてはならないのだろうかと考えざるを得ない。まあ、その程度の人間なのだと、自分を責めるしかないのだが。
だから腹いせに、月にキャラメルソースを塗ってやろうと思った。そう思ったのは、電車の窓から見た月がまん丸で綺麗だったからかもしれないし、駅ナカのパン屋から香る、キャラメルのような匂いが鼻をくすぐったからかもしれない。けれど、月とキャラメルソースが結びついた理由は、自分でも分からない。全くもって分からない。
しかし、月見団子があるのだから、月にキャラメルソースを塗ってはいけない事にはならない。みたらしは良くて、キャラメルソースは良くないなどという道理はない。それに、最近は和菓子と洋菓子のコラボのようなものも増えてきた。団子にキャラメルソースを塗るものも、知らないだけであるのかもしれない。とすれば、月そのものに塗っても、問題はない訳だ。
「そこの貴方!スーツでメガネのそこの貴方!」
後ろから大声が聞こえたので振り向くと、警察官だった。思わず身構える。
「貴方ね、財布を落としたのに気付かず行ってしまうものだから、思わず大きな声を出してしまいましたよ。何か考え事でもされてたんですか?」
「えっと、月にキャラメルソースを塗ってみようかなあって。」
しまった。ついついテンパって、変な事を言ってしまった。これは尿検査ルートかもしれない。少なくとも今日は家に帰れないな。僕は自分の発言を、激しく後悔した。
すると警官は、空を見上げて、じっと月を眺めた。そして顎を下げて、こう言った。
「なんでキャラメルソースなんですか?確かに今日の月は美味しそうですけど、普通月に塗るなら、みたらしでしょう。」
「駅ナカのパン屋から、キャラメルのいい匂いがしてきたんで…。」
「ああ、なるほど。でも私は、みたらしの方が美味しいと思いますよ。今の和菓子と洋菓子のコラボみたいなのは、受け付けませんね。和菓子は和菓子、洋菓子は洋菓子であるべきです。」
え、この警察官、受け入れるの?この発言を?大丈夫か?と思いながら、警察官から財布を受け取る。一応、解放されたのだ。
「駅ナカのパン屋、仕事終わりに行こうと思います。」去り際、警察官はそう言った。こうやって、当たり障りのない会話をするのは、久しぶりだった。
僕はもう一度空を見上げた。月は美しく光っていた。けれど、もうキャラメルソースを塗りたい、とは思わなくなっていた。月は月のままで十分美味しいと思う。というか、別に食べなくても良いと思う。キャラメルソースはパンに、みたらしは団子に、月は空に、それぞれの役割があるのだ。警察官にも、サラリーマンにも。そういうことにして、また頑張っていくしかないんだろうなあ、と思った。
月は白い雲に少しだけ隠れていた。それはまるで、ミルクソースを塗ったようだった。