艦長の夢(短編小説)
「艦長、失礼します。」
「うむ。」
艦長、と呼ばれる事にはもう慣れた。目の前にいる若人とは、親と子くらい歳が離れてしまった。あれほど苦痛で幸福だった船での仕事も、今ではつまらない事の繰り返しだ。
「…以上、報告終わります!」
「うむ、ごくろう。」
報告が終わる。以上はない。以上なし、の一言のためにどれだけの労力と金が必要なのか、よく知っている。そうでないなら、艦長になんざなれやしない。しかし、ここに座っていると、そんな事は遠い国の話のように聞こえる。この部屋の下で行われている事とは、全くもって思えない。
…。
「藤峰技官!藤峰技官!何をしとるか!」
「は、はい!申し訳ありません!」
軍隊に入って一番最初にするのが反復練習だ。こういう時は、こう。この時はこう。全てをテンプレートに入れる。そこには、個人の意思はない。もちろん、うっかり寝てしまった時もだ。
体は見事に反応していたが、心はざわめいていた。先ほどまで、艦長だった私が、一技官として働いている。船の技師として、メンテナンスに励んでいるではないか。何故こんな事が起きているのか。分からない。分からないが、幸福だった。
「ここの持ち場は、お前だけで充分だろう。他の人間は、昼飯にしていい!」
居眠りの罰として、居残りさせられる。けれど、全く嫌ではない。船に能動的に関われるのが嬉しい。自分の手で、船を守れて嬉しい。艦長の時には、それはなかった。油をさし、機器の異常を確認する。それは、船の心臓を見ているのと同じだ。技官として、最高の瞬間だ。でも何故、ここまで船が好きなのだろう?
すると遠くから、歌声が聞こえてきた。透き通った、綺麗な声だ。こんな声を出せる人は、きっと美しい人だろうと思った。どこかで聞いた事はあるが、名前は思い出せない。あれ、誰だろう。
…。
「それじゃあね。私の事、忘れないでね。」
女の子は船に乗っていってしまう。巨大な鯨のようはそれに乗って、旅立ってしまう。
「君の歌声が好きだったよ。忘れないよ。」
言葉が体から出てくる。手のひらを見てみると、とても小さい。幼少期の思い出だ。
女の子が船に乗り込む。それが悔しくて、悲しくて。船に乗りたくて。唇を噛んで、黙ってその光景を見ていた。
デッキから女の子が身を乗り出す。口ずさむ歌は、さっき聞いた歌だ。懐かしい。何年ぶりに聞いただろう。
…。
「か、艦長。お目覚めですか?」
「あ、ああ。すまない。」
やはり夢だったようだ。彼女に会うために船に乗ったのに、結局会えずじまいだ。
けれど、また会った時にこれでは恥ずかしい。私は襟を整え直した。
「それで、報告は?」
声に艶が出てきたようだった。
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