船の上のマジシャン(短編小説)
船は静かに揺れていた。今日は快晴で、ウミネコ達も元気に歌っている。甲板では、乗客達が冷えた飲み物を片手に、光を浴びているところだ。まさに、幸福とはこういう事だろう。
その中で、一人だけ憂鬱そうな顔をした男がいる。トランプを詰まらなそうにシャッフルし続けていて、目は藻だらけの海面のように澱んでいた。「何をやってもダメなんだ。」唇から、力ない言葉が漏れた。
彼はマジシャンだった。少なくとも昨日までは。船の中で余興をするために呼ばれたが、昨日大失敗をした。トランプマジックをしている時に、突然子供が壇上に上がってきて、驚いた拍子にトランプを落としてしまったのだ。おかげでタネは丸見え。相当な恥をかいた。それだけではなく、失敗の責任をとる形でマジシャンを辞めなくてはならなかった。「君が辞めないなら、他の人間に責任をとってもらう事になるけど。」昨日の言葉が、耳にこびりついていた。
船を降りたらどうやって生きよう。それだけを考えていた。しかし、答えが出る訳でもない。彼はいつのまにか眠ってしまった。
目が覚めた時、辺りはすっかり暗くなっていた。くつろいでいた乗客達も、ディナーのために甲板を離れていた。男は食事を取る気になれなかった。ずっとこの甲板にいて、飢え死にすればいいとさえ思った。耳をすませば、ディナーを楽しむ人々の話し声や笑い声が聞こえて来る。男はまた眠ってしまいたかった。瞼を強く閉じた。しかし、そう簡単には眠れなかった。
「すいません、お客様。甲板はそろそろ閉めなくてはならないのですが。」声の主は、クルーだった。まだ若い女性だ。
「あの、僕客じゃないんで、まだ居てもいいですか?」男はそう言った。決して、甲板にいたかった訳ではない。ただ、なんとなく困らせてやりたかったのだ。
「ええと、今から甲板の清掃をするのですが、手伝っていただけるのなら大歓迎ですが…。」女性クルーは困惑して様子で答えた。当然だ。客ならとっとと移動するし、クルーなら清掃がある事くらい知っている。客でもクルーでもないなら、こいつはなんなんだという話になる。まさか、今日から無職になった男とは夢にも思わないだろう。
「えー、うーん、まあいいですよ。」手伝え、と言われて正直気乗りしない男だったが、断るのも面倒だったのでイエスと答えた。それに、他にやる事もなかったし、なにより掃除でもすれば、あの忌々しい話し声や笑い声が気にならないのでは、と考えたのだ。クルーからモップを受け取ると、男は清掃を始めた。
とはいえ、男の清掃にはやる気や覇気が全く感じられなかった。モップかけは、まさにポーズだけという状態で、意味のない遊戯に過ぎなかった。ただただ床を濡らしているに過ぎないのだ。
ふと、男は女性クルーを見た。テキパキと動くその姿は、まさにプロフェッショナルそのものだった。モップが引く水線は、定規で測ったように真っ直ぐだった。男は自分の水線をチラと見て、すぐに視線から外した。結局、ほとんど戦力にならないまま、気づけば清掃は終わっていた。
「いつもこんな事を一人で?」美しくなった甲板を眺めながら、男はクルーに聞いた。
「はい、仕事なので。」
「大変ですねえ。」
「いやまあ、仕事なので。それに私、大黒柱なので。」
「大黒柱?」
「両親が亡くなっていて。兄弟もまだ小さいので、稼がなくてはならないんです。大変ですけど、生きていくためには、まあしょうがないです。甲板の清掃を一人でやっているのは、その方がお金になるから、船長に頼んだんです。他の人を雇わないでくれって。けど、今日は話し相手がいて、楽しかったです。」
「…僕も楽しかったです。」
そして、二人は別れた。男はベットの上に寝転び、考えた。もう少し、謙虚に生きなくてはならないのではないか、と。そして、明日船長に会いに行ってもう一度マジシャンでもなんでも良いが、仕事をくれと交渉してみる必要がある、と。そんな事を考えた。
船は、相変わらず静かに揺れていた。何も変わらないまま、静かに揺れていた。
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