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筋肉と電車の椅子(短編小説)
20xx年。技術の進化は留まるところを知らず、日常にはロボットとAIが溢れるようになった。最早、労働をするのは物好きか趣味の延長でしかなくなった。
そんな世の中で最も流行しているのが、筋トレである。人々は、賢さよりも肉体の素晴らしさに価値を見出すようになった。大学は文学部や理工学部の枠を狭め、体育学部の枠を増やした。支持率低下の内閣の逆転の一手は、筋肉庁の設立だ。ボディビル大会は、人類最大の関心ごととなり、政治家の名前は5人も言えないが、ビルダーの名前なら100人は言えるという人間が多数派となった。
さて、そんな世の中において、ある問題が生じた。電車の椅子に誰も座らないのである。筋肉を鍛える事を重要視するあまり、誰も椅子に座ろうとしない。しかし電車の設計は、当然まず座ってもらってから立ち客が出るようになっている。誰も座らないなら、椅子のスペースが邪魔だ。とはいえ、事情がある人のために椅子は必要だ。鉄道会社もそこまでは踏み切れない。人々はとりあえず納得はしたが、普通の人で椅子に座る奴は軟弱者という風潮が生まれた。
そんなある日、一人の男が現れた。身なりはきちんとしていて、肉体も申し分ない。しかし、その男は椅子に座ったのである。電車内は、騒めきに包まれた。この肉体を持っていて、何故座るのか。人々は困惑した。
「あの、何故座るんですか?」とうとう、一人の男が尋ねた。
「え?理由なんかないよ。座りたければ座る、それだけさ。それに、誰も座ってないから、いいかなって。」男は答えた。人々は呆気にとられた。
翌日、ネット上で男は拡散され、議論された。憶測が飛び交った。実は足を怪我しているのではないか。実は若く見えるだけで、老人ではないか。実は女で、妊娠してるのではないか。とんでもない説も飛び交い、ネット上は一種のパニック状態となった。
男は翌日以降、姿を見せなかった。しかし、議論は座る事への是非に入れ替わっていた。過激な言葉が飛び交った。侮辱罪で、何人もの人が逮捕された。それでも状況は良くならなかった。
それを見ていた子供達は思った。大人に反抗する手立てとして、これ以上のものはない、と。派手な格好をした若者達が、席を占領し始めた。もちろん、優先されるべき人が来たならば、譲るのだが。メディアは、「座り族」と名前をつけ、煽った。座り族は社会現象となり、流行語大賞になったり、ドラマに組み込まれたりした。大学では、過去の文献から昔は座っていた事が分かった。コメンテーターは、昔がどうとかではないと吠えた。流行歌にも、テレビにも、インターネットにも、座り族の話が出ない日はなかった。
そうしてムーブメントは加熱し、いつしか沈静化し、子供達も大人になり、気がつけば椅子に座るのは当たり前の事になった。当然、譲り合いは必須だが。人々は当たり前のように座った。座り族なんて言葉は、もう誰も使わなくなっていた。
ある日、電車に一人の男がやってきた。年老いた男だったが、肉体はシャンとしていた。若者が席を譲り、男は礼を言って座った。
「なあ若者、昔はな、席に座る事はマナー違反だったんだ。知ってたか?」
「え、そうだったんですか。なんでそんな事になってたんですか?」
「さあ、皆バカだったんだよ。何も考えず流されていたら、気がつけばそれが公共のルールになっていた。誰も頼んでもいないのに。皆、脳みそが筋肉になって、考えるのをやめてしまってたんだな。」
男は笑った。少年も、よもやこの男が全ての始まりとは思わないだろう。
こうして、時代はまた進化と退化を繰り返す。どんな時も、時は巻き戻らない。電車はひたすら、ガタゴトと言いながら進んでいた。