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ミシシッピーワニ(短編小説)
「ミシシッピって、Sがいくつだっけ?」
「4つ。」
クイズアプリに夢中な彼女とは裏腹に、僕はすっかり退屈していた。なんだってこう、病院というのは待たされるのか。予約を取って、この時間に来てくださいと言ったのはそっちではないか。それなのに番号札を渡されて、もう10分が過ぎている。レストランや床屋で同じ事をやったらとんでもない事になるのに、なぜ病院は許されるのか。今度の朝生のテーマにしてほしい。見てないけど。
僕の退屈に拍車をかけているのが、スマホの電池切れである。現代人というのは、つくづくスマホに頼っていたのだなと痛感させられる。本も音楽も情報収集も、全てスマホに集約していたので、充電がない今はあくびくらいしかする事がない。こういう時、気の利いた本でも置いてくれたら病院の事を見直したのだが、あるのは下らない女性週刊誌と健康について書かれた本だ。真っ白い壁を眺めていた方が、よほど健康的と言える。
あくびにも飽きたので、僕はミシシッピについて考える。ミシシッピ。アメリカに行った事のない僕には、朧げなイメージしか浮かんでこない。蒸気船ウィリーのような、如何にもな船の上でテンションの高い船長が、酒を飲みながら歌って、ハンドルを握るのだ。こういうのを、ステレオタイプという。自分でも正直反省している。
ミシシッピと聞いて、もう一つ思い出すのが、ワニの話である。ミシシッピにはワニがいる、と兄は言っていた。兄は、食肉加工会社に勤めていて、アメリカ支部にいた。どんな肉を加工するのかと聞いたら、ワニだという。
「ミシシッピーワニって奴がいてさ。これがもうすごい数いるんだ。ワニ農場で養殖して、地元のレストランとかに卸すんだ。」
「噛んだりしないの?」
「大丈夫。ミシシッピーワニは比較的大人しいから。とはいえ、ナメちゃいけない。大切なのは、ワニを敬う事だ。命を頂くんだからな。
「へえ。ミシシッピ州はいい所?」
「いや、俺がいるのはジョージア州だ。ミシシッピ川は長いからな。」
なんでだよ、と思った。ここまでミシシッピミシシッピ言っといて、ジョージア州に住んどるんかい!と思ってしまった。それと、なぜワニの名前の時だけ、ミシシッピーと伸ばすのか。分からない。謎まみれだ。兄は去年亡くなったから、聞けずじまいだ。
僕は目を閉じる。そして想像する。今、この空間にミシシッピーワニを放ったらどうなるか、と。ノソノソと動き回るミシシッピーワニを見て、パニックになる患者たち。その鋭い牙と、全てを噛み砕く顎の力。ここにいる人間なぞ、目ではないだろう。
「そんな想像に僕を使わないで下さいよ。」
「ミシシッピーワニ!?」
想像の中でミシシッピーワニに話しかけられて、私はひどく驚いた。
「確かに病院の待ち時間は長いです。しかし、大きな病院では、検査や症状も複雑なので、1人あたりにかかる時間も長いんです。この混雑は、誰が悪いわけでもないんです。強いて言うなら、大した症状でもないのに来ているあなたが1番の悪です。あなたが私に食べられるべきです。」
「君は空想の存在だろう。どう食べられるんだ?」
「心です。あなたの心を食べます。そうすれび、ミシシッピーワニの心になります。ミシシッピーワニの心は皆美しいです。」
「…なるほど。じゃあ食べてみろよ。僕の心を!」
目を開けると、僕の心は穏やかになっていた。そしてなんだか、無性に帰りたくなっていた。
「ねえ、もう帰ろうか。薬局に寄って、薬だけ買えばいいよ。」
「そうね。もうクイズも飽きたし。」
僕たちは待合室を去った。彼女は僕の前をポクポクと歩いている。僕はその背中に噛みつきたい、と思った。そして、世界がなんだか面白く感じてきた。