神聖かまってちゃん・の子の作詞テクニックは凄い
小学生のようなタイトルを付けてしまった。けれど本当の事だから仕方がない。
神聖かまってちゃんに対する評価としてよく聞かれるのが、赤裸々な言葉や破天荒なライブパフォーマンスが素晴らしい、みたいな言葉だ。確かに、学生時代に自分をいじめた相手に対して「死ね」と突きつける歌詞や、流血やメンバー同士の喧嘩もあったライブを見れば、そのような評価をしたくなる気持ちは分かる。
しかしそれらは、バンドのフロントマンであるの子にとって、一つの側面でしかない。彼の詞を見ていくと、テクニカルな部分が垣間見える。今回は、「衝動」だけではない神聖かまってちゃんの魅力を考えていく。
その1 視点の移動 『僕の戦争』『ぺんてる』から
神聖かまってちゃんの歌詞においてしばしば見られるのは、視点の大胆な移動である。詩中の主人公がシームレスに変化していくのだ。このテクニックが遺憾なく発揮されているのが、『進撃の巨人ファイナルシーズン』のオープニングテーマである『僕の戦争』だ。
前半は英語詞で「Destruction and regeneration You are the real enemy(破壊と再生 お前こそ本当の敵)」など、戦いを連想させる言葉が頻発する。タイトルと相まって、聞き手は自然と戦地を連想する。しかし、二番が終わると、日本語での歌唱パートが始まる。ここでは「下校時間 鳴きだすチャイムとだんだんと落っこちてゆく」「宿題やって寝なくちゃね」など、現代日本を連想させるような詞に変化している。ここで『僕の戦争』の戦地は、実は学校であったことが明かされる。の子本人は、「「僕の戦争」は僕の中で聖歌と日本昔ばなしを合わせたような曲にしました」と述べている。日本昔ばなし的な世界、つまり狸が人を化かすようなどんでん返しが仕掛けられているのだ。
このテクニックを使ったのは初めてではない。『ぺんてる』という曲では、「放課後はまた蛙道」「ジャポニカ学習帳に今、ぼくなりに学習した事さ」というフレーズや蛙道とゲロを組み合わせたレベルの低い韻踏みから、主人公が小学生であるとリスナーに思わせている。しかし、「僕は大人になりました」のフレーズから一気に「今」の視点に変化している。小学生のような部分は実は回想パートであった事がここで分かるのだ。
ではなぜ、この大胆な視点の変化をするのか。まず『僕の戦争』を考える。先述した通り、これはタイアップソングである。当然、相手の世界観に合わせなくてはならない。しかし、ファンタジーアニメである以上、神聖かまってちゃん本来の世界からはズレる事になる。この問題を解決するための視点変更ではないか。アニメファンは前半パート(アニメでは英詞部分しか流れていない)を、かまってちゃんファンはの子本来の世界観が味わえる後半を楽しめる。もちろん、これは進撃の巨人が神聖かまってちゃんと比較的近い世界観にあるからできる手法である(世界観が違いすぎると、視点変更が唐突になってしまい、1つの曲に2つの全く趣の違う情報が入ることになり、聞き手を混乱させてしまう。)。の子本人も、「「進撃の巨人」と神聖かまってちゃんの持つ世界観には共通しているところが多いと思うんです」と述べ、進撃の巨人と神聖かまってちゃんの世界観の類似性を認めている。それを分かった上で、あえて仕掛けを入れる事で、アニメを壊さず自分の世界観を維持するギリギリのラインを狙う。視点変更はこうした意図があったのではないか。
一方、『ぺんてる』は大人になってしまった切なさがテーマの曲である。切なさを最大限に引き出すためにはどうすればよいか。聞き手に「大人になってしまった」というのを疑似体験させるのだ。子供時代の「このまま大人になったらどうしよう」という感情を体験させ、そのまま一気に「僕は大人になりました」というフレーズで大人にさせる。なにも問題は解決していない。聞き手に不安を募らせる。そしてそのまま「僕はいつまでもそんな糞ゲロ野郎でさ」とゲロと連呼していたあの頃と本当に何も変わっていない事を暗示させつつ、小学生時代と同じメロディで「ぺんてるにぺんてるに」という。変わらないという事に対する諦めと絶望感、そしてそこから来る切なさを聞き手に叩きつけているのだ。このストーリーは、の子自身の実体験から来ている(ぺんてるはの子が学生時代よく通った駄菓子屋のあだ名)。の子がたどってきた歴史を疑似的に体験させることで、自身が体験した切なさを表現している。これはまさにテクニックの勝利と言っていいのではないか。
その2 ボーカルとの兼ね合い 『躁鬱電池メンタル』『ロマンス』から
先ほどから、たびたび詩という言葉を使っているが、ある意味ではこれは不正確である。神聖かまってちゃんはロックバンドである以上、歌詞という言い方が適切である。の子は時に、自分の歌詞をより理解してもらうために、歌い方を工夫している。これにより、歌詞の意味に奥行きが増している。典型例は、『躁鬱電池メンタル』と『ロマンス』であろう。
まず、『躁鬱電池メンタル』から見ていく。一番のサビの歌詞は、「躁鬱電池メンタル 病める夏 怖い夏 会いたくないよ(中略)電池差し替える度消えてゆく かわるがわる季節のように 少しでも伝えたい そして出した刃物」とある。ここで、歌詞の主人公が躁鬱病である事が語られる。また、ボーカルは気だるく歌っている。「そして出した刃物」など、過激なワードも、感情を込めることなく淡々と歌い上げる。しかし、二番のサビになるとこの気だるいボーカルが突如豹変する。凄まじいシャウトを聞かせた、エモーショナルなボーカルに変化するのだ。歌詞も、「お願いまた違う人の ような鋭利さが出てきても 少しでも伝えたい 本体のこの想い 電池差し替えても新しい あたしを噛み切るあたしがさ 少しでも伝えたい そして刺したナイフ」と、なる。
ここで躁鬱病について解説しよう。厚労省によると(1)、極端に調子が良くなる時期と鬱の症状を繰り返す病気だそうだ。現在では極端な症状を行ったり来たりすることから、双極性障害と呼ばれている。また、の子自身も躁鬱病に罹患している。
歌詞の中ではこの極端な感情の振れ幅を、電池を差し替えるという表現をしていた。それに付け加えるような形で、気だるい歌い方とシャウトを織り交ぜることにより、躁鬱病を楽曲で表現することに成功している。電池を変えるという詩表現もユニークだが、ボーカルの声色を使い分けることで、「少しでも伝えたい」という目標を達成している。
次に『ロマンス』を見ていく。『ロマンス』の歌詞には、性暴力を思わせる表現が出てくるので、気分が悪くなる方はブラウザバックを推奨する。
先述したように、この曲は性暴力がモチーフになっている。それも、性暴力を働いた人間の懺悔という、なんとも難しいテーマを扱っている。歌いだしは、「disappointed ごめん、ねえ ごめん、ねえ ごめん、ねえ 悪いんだよ僕が ごめん、ねえ ごめん、ねえ」という歌詞になっているが、歌い方は微妙に歌詞に即していない。の子のボーカルが、歌詞の「、」を無視して歌っているので、繋げた「ごめんね」に聞こえるのだ。聞き手は、一人の人間が何かに謝っているとしか思わない。
しかし曲が進むにつれ、主人公が性暴力に加害者と判明した後、歌い方は一変する。今度は、「、」を強調した歌い方になっているのだ。それも。「ごめん」は通常通りに、「ねえ」はシャウトして歌うことで、明らかに別人である事が強調される。ここでの「ごめん」はどこか空虚な印象を与えるのに対し、「ねえ」は強い怒りの感情を表現しているように聞こえる。これは、加害者と被害者のやり取りではないか。謝ることしかできない加害者側と、そんな空虚な謝罪に憤りを感じている被害者の怒りと無念さが表現されている。歌詞では最初から、「ごめん、ねえ」だったので歌詞だけを読んでいると、気が付く人もいるかもしれない。しかし、歌い方を工夫する事で、曲だけを聞いている人には仕掛けにギリギリまで気が付かないように、歌い方を変えている。テクニカルとしか言いようがない。
いかがだっだだろうか。破壊的な印象を受ける神聖かまってちゃんだが、注意深く見るとその奥深い世界に気づく。これを見て、神聖かまってちゃんに興味を示してくれる人が増えたなら、嬉しい。
個人的におすすめの曲
(1) https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_bipolar.html 厚労省の躁鬱病に関するページ
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