本を読むという体験が、最近敬遠されがちな理由(エッセイ)
以下の文章は、昔に書いた「なぜ最近社会現象クラスの本が少ないのか」を考察したものです。昔の文章なので、多少荒っぽい事をお許しください。
便利な時代になりましたねえ、と殆ど人生経験もないくせに言ってみる。産まれた時には、インターネットも携帯電話もあった人間が、こんな事言っていいのか。
僕にとっての、「便利な時代になりましたねえ」は、新しい発明の話ではない。全自動洗濯機やテレビが家にやって来た、みたいな意味での便利さは大体昭和に固まっている。
僕にとっては、それは「集約」と「自動」である。
まず、「集約」。いろんな機能が集約された製品が多く出てきた。スマートフォンでネットを見て、写真を撮って、そこそこ面白いゲームが出来る。スマートスピーカーは、情報を教えてくれるのと同時に、音楽のスピーカーにもなる。
そして、「自動」。今までの自動は、一応人間が指示をする必要があった。ボタンを押すとか、そういう形で。けれど今は、AIが人間に自動で提案をする時代だ。AIの方が、人間に指示をしているのだ。この曲が好きなら、これも聴いた方がいい。この映画が好きなら、これも見た方がいい、みたいな形で。YouTubeの自動再生機能を使えば、我々は体を動かす必要がない。おすすめ動画が勝手に流れてくるからだ。
この二つは、人間の価値観に大きく影響して来ていると思う。つまり、「集約」されていて、「自動」のものでないと、受け付けない体にされてしまっている。
さて、世の中にはどうしても自動化出来ないものがある。それは文章を読む事だ。ショートメッセージならともかく、長い文章は自動化に向いていない。読むスピードが人によって違うからだ。自分で紙を捲るなり、指をスワイプさせる必要がある。
また、読む事は「集約」にも適していない。古い文献は紙媒体しかない事も多いし、権利の関係でサブスクサービスも定着していない。
令和の便利さというのは、我々人間がどれだけ受動体になれるかで、その質が変わってくる。能動的であるならば、00年代と特に状況は変わっていないのかもしれない。強いていうなら、パソコンがスマホになって調べるのがよりラクチンになったくらいか。
もっというなら、文章を読むという事の快適さのレベルは、そこまで昔と変わらないのかもしれない。動画や音楽のように、サクサクと次にいけない感覚というのは、昨今では中々お目にかかれない体験なのかもしれない。それこそ、本という体験が敬遠されがちな原因なのがしれない。
動画や音楽に比べ、本や文章が中々バズってると言えるようなものが産まれにくい土壌には、こういう事があるのではないか。
以上、勝手な考察でした。
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