聖書を学ぶ~聖霊が働いてくださるクラス~
(創造的な聖書の教え方6章 「創造的な教え方とは何か」
子どもたちは、日曜学校教師の話に耳を傾けて、目を輝かして聖書の世界、神の国に活動し、主の導きに応答しようとしているか。
おとなしく話を聞いていることが、主の御声を聞いているかどうかの保証にはならない。うわのそらで、その場をやり過ごすことに長けているのが、賢い子どもたち。
聖書を教えることに難しさを感じることは、正しい。いかに御聖霊の導きを受けるか、そしてそのとおりに聖書から教えるのは、決して簡単なことではない。そして、「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ55:11)ということに慰めを受けることもしばしばだ。教師がどのように語ったとしても、語られた御言葉そのものが子どもたちの心の中に働きかけ、御聖霊が生活に働きかけて下さる、と期待して、私たちは「安心」する。
その安心は、正しい安心か? 御言葉は、日曜学校教師がどんなふうに語ったとしても、御言葉自身が働き、主の御旨を実現してくれるのか。
その安心に甘んじている時に、教師は、自分の教え方を点検しようとはせず、スキルアップしようなどと思うことはない。問題は、「わが口から出る言葉」の理解だろう。いつも、C.スポルジョンが神の救いを受け入れたエピソードにしがみついていたら、切り株でウサギを捕まえるのを待ち続ける愚を繰り返そうとしているだけに終わる。必要に応じて神はそういうこともなさるかもしれないが、それを私たちの方からいつもねだるような標準にしてはならない。
聖書を教えた後、「そのうちに」生徒が変化してくれることを期待するのではなく、今週、変化が現れること、その変化が継続するように期待するクラスにしていきたい。
学習の段階
聖霊が働いてくださった結果を目の当たりにできるような、日曜学校が可能なのか。
それは、「私の生活現場で聖霊が働いてくださった結果を目の当たりにすることは、可能なのか」と質問を直してみると、大変に重大な意味を持っていることがわかる。御聖霊は、私たちがわかるような働き方をしてくださるのか。それでは、日曜学校の現場では?
一つの例は、信仰告白だ。福音を伝える。それによって誰かが信仰告白に導かれる。それは、明確な御聖霊の働きの結果ではないか。それ以外にも、御聖霊が働いてくださる時に、人が造りかえられ、変化していく過程に、かかわることができるのではないか。御言葉を聞いた人が、それを理解し、受け止めて、信仰告白という応答をする。そのような、日曜学校の授業が、できるのではないか。
それで、御言葉を教えるとはどういうプロセスなのか、概観する。
(1)機械的暗記の段階:暗唱聖句させる習慣が教会にはある。幼児がオーム返しに言葉を発語できるようになることになぞらえることができるかもしれない。意味のわからない外国語を、ともかく、発音してみる、というレベル。そこに、御聖霊は働いてくださるのか。そもそも、聖書の御言葉は、おまじないの言葉のように、ただ口に唱えるだけで効果が期待できるようなしろものではないと、はっきり知るなら、このレベルにとどまっていいはずはないと納得できる。幼児であっても、だ。
(2)言葉を認識する段階:意味のわからない外国語で聖書を読んでいるわけではない。教師が教える言葉は外国語ではない。自国語として理解する、というレベルがある。「聖書=おまじない」よりは進歩している。お話を聞いて、理解するレベルにある。
でも、一般的な知識にとどまっている意識でいる場合がある。「イエス・キリストが人間の罪のために十字架にかかった」と、何度も聞いていても、それを自分の事として結びつけることがなかったインドネシア人クリスチャンは多い。キリストの十字架は知識としてだけ知っていて、天国に行くためには、よいことを積み上げなければならないと信じている。そのような聖書の教え方にとどまっていていいはずがない。知識を持っている以上のことが、要求されている。
(3)言い換えられる段階:聖書に描かれている状況を理解し始める段階。「イエス・キリストが人間の罪のために十字架にかかった」と知った上で、現実の多くの「人間」にこの御言葉がかかわっているのだと理解する。「どんな宗教でも天国に入れる」と言っている友人はどうなるのか。その友人にどう説明できるか。そもそも、目には見えない神が、自分を取り巻く現実に、その聖句に書かれている内容どおりに、働きかけておられることを、理解しなければならない。
生徒が聖書に描かれている現実の「状況」をどう理解しているか、教師はどうやって知ることができるか。生徒自身が語る言葉を聞くしかない。生徒に語らせることが必要。また、生徒に自分で語らせることによって、その状況の中に自分を置いて把握することへと道筋をつけている。
(4)関係付ける段階:個人的に自分に結び付けて考える。神が、今この時に御口から語ってくださることを受け止めるのは、教師が、生徒の一人一人が自分に結び付けて洞察するように教えるときに、可能となる。ただ、「イエス・キリストが自分の罪のために・・・」と、洞察を自分に結びつけることは、罪人にとって最も難しいことだ。そこにこそ、御霊の働きかけが不可欠となる。聖書を、文章の意味の理解のために研究することは、御霊の働きなしにもある程度はできるかもしれないが、自分の状況に対して神が今語ってくださっている、と受け止めることは、御霊の働きによってはじめて可能なこと。
生徒が、自分から意識して、御言葉と自分自身との関係を見出し、悟ること。日曜学校のクラスは、ここまで教えてはじめて、御霊の働いてくださるクラスとなりうる。クラスにあって御霊が働いてくださっているなら、生徒が日常生活に戻ったところでも御霊が働いてくださることを期待することは、正しいだろう。もし、クラスで、御霊の働きが認められないなら、生徒の日常でも御霊の働きが認められるようになるかどうか、あやしいものだ。
そこで、教師は生徒が真理を自分自身に「信仰によって結び付ける」(ヘブル4:2)ように導く。
(5)実現の段階:御言葉が実践されることが、御言葉を教える目標。そこに、御霊が働いてくださる。御言葉の真実さを知るのは、その御言葉の意味しているところを実践し、経験した時だ。生徒がそのような経験を持つように、教師は目標を持ち、意識的に教えていかなければならない。(1コリント6章、6回の「知らないのですか」)
教師の目標
(1)事実と意味:物語を語るように、聖書にある記事の事実をかたることだけにとどまっていては、日曜学校の幼稚課でも、物足りない。自分にとってそれがどんなにすごい意味を持っているのかを悟った時、小さな子どもでも、驚きは倍増する。意味を悟らせることに目標を置きながら授業を進めるとき、クラスは変わる。福音の事実は、個々人に直接かかわっているものすごい喜ばしい知らせなのだから。
(2)生徒の受動的参加と能動的参加:教師の「お話」の間、生徒はただ聞いているだけか。時々相槌を打つだけか。生徒は、自分自身の生活の事を思い巡らせ、学びつつある御言葉との関係を見出すための時間が必要だ。生徒がおとなしく聞いていたら、授業は成功したと思っていたら、大間違い。生徒が「告白」する時間を備えてあげることが大切。
(3)教師は語り手か、導き手か:教師がすべきことは、「お話」を語るのではない。たましいを導くことだ。御言葉を通して働きかけようとしておられる御霊に、生徒が応答するように導くことだ。日曜学校時間に、生徒がどれだけ積極的にかかわるようになるかどうかは、導き手としての教師次第。生徒が意味を発見する過程に「参加」させるように導くのが、教師の務めだ。
参加型のクラスを創造することが、この学びの眼目。