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愛する人との再会ののぞみ

人生最後の、最大ののぞみは、やはり「天国」に尽きるでしょうか。死の報に接するとき、やはりつらい思いがでてきます。それが永遠の別れだとしたら、諦めか、そういうものだと悟ったふうに思うかしない限り、その人への思いは残ります。死別のつらさを味わいたくない。

誰も彼方から確かな証拠を持って帰ってきた人は身の回りにいませんから、普通は、天国について語るのも、いわば淡い望み、あってくれたらいいなー、というところかもしれません。でも、本当にあってほしい。それが、愛する人を失った時の、心からの願いです。

もし、愛する人と再会したい、という願いを持たない人がいたとしたら、その人は天国を望むでしょうか。そこに行ったって、つまらない思いをするだけ、と、もし期待も何も持てなかったら、それは別問題。

案外、天国ののぞみは、自分が愛されているかどうか、愛する人がいるかどうかにかかっているのかもしれません。永遠に愛し、愛される。それが天国のはずですから。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。                ヨハネ3章16節

イスラエルに示された永遠の愛

永遠の愛で愛している、と公言できる人はあまり多くはいないかもしれません。聖書には、こんなフレーズが記されています。

主は遠くから私に現れた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ書31章3節; 新改訳2017版)

神がイスラエル民族に向けて語っているものです。彼らが神の教えに逆らい、するなと命じられていた隣国との同盟に走っていたさなかに語られたものでした。逆らい続ける民に向けて、永遠の愛を語ることができる神。それが聖書の神です。

愛とは、一つになりたいという強い思慕。神は、その最終目標である「新天新地」について、こんな風にヨハネに幻を見せています。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21:3,4)

神が人と共に住む。それが、聖書の最終楽章です。神の愛の完成地がここにあります。

すべての人に対する神の愛

その神が、私たちをも愛してくださっている、と伝えているのが聖書です。実は、これが天国への最も大きなのぞみに繋がっているのだろうと思います。「友のために命を捨てる、それ以上に大きな愛はない。」それを実行したのが、イエス・キリストでした。しかも、イエスを敵と思う人のためにも、イエスを全く意に介さない人のためにも。十字架の死は、神を愛せない人の心の重荷と罪を救うための身代わりの死。そこに神の愛が示されているのです。

命を捨てるほどに私を愛してくれた人に会える! それは、天国へののぞみを最も掻き立ててくれるものです。もし人が、地獄の苦しさを逃れたいだけに天国を望んでいるうちは、このような願いは起こらないかもしれません。

そもそも、「地獄」という言葉が、ただ人を恐れさせて従順にさせるためだけに作られたものではないのか、とか、可愛さ余って憎さ百倍、で生まれた妄想じゃないか、とか、思えることもあります。天国にしろ地獄にしろ、人間関係と無関係ではない、というところ。なにより、人間と神との関係に直結するところなのです。地獄とは、神の愛が全く破綻している、断絶してしまっているところを指しています。

でも、「滅びないで」と願う神は、どんなことをしてでも人間と一つになりたい、共に住みたいと願っている神だ、ということが聖書から伝わってくるのです。たとえ、私たちの側が、神も仏もない、とすっかり決め込んでいたとしても、心の扉をノックし続けている。

永遠の断絶ではなく、永遠の命を得て、神と共に生きるようにとの、ぎりぎりの神の選択、神の行動が、御子を賜ったことでした。

有り得ないことを実現する神だから

永遠の命も、天国も、死の力も、それらをすべて体験している、というのが、聖書に記されているイエス・キリスト、神の御子です。ヨハネの福音書3章は、イエス・キリストがユダヤ教指導者であるニコデモに、この神の命を教える場面。

「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。(ヨハネ 3:3)

これを聞いてニコデモは、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」(4節)と答えてしまいます。生まれ変わる、ってなに?まるで、神の国に入ることなどありえない、と宣告されたように受け止めてしまうのです。

「希望」とは、ありえないことを望むこと。それこそ、有り難いこと。人がいくら努力したからと言って、聖書の預言にある神の国はそれによっては実現されない、でもそれを望むことができる。それは、イエス・キリストが、天から下ってこられた方、永遠のお方だから可能なのだ、と、なんとも控えめに福音書の一節に記されています。


わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書3章12-15節)

処女マリヤから生まれたイエス。十字架にかけられて死んで三日目に復活したイエス。私たちにとって有り得ない、本当に有り難いことが、歴史上、ただ一度、エルサレムで起きたのでした。そこで語られたキリストの言葉が、聖書の真髄を現しています。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

神を愛せなかった人が、愛せるようになるのは、神の御子イエス・キリストを知ることから。この一節が聖書の中の聖書と言われるゆえんです。これが、愛する人との天での再会を保証してくれる神の言葉なのです。


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