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エンジェル・ブレス・ユー~花組公演『エンジェリックライ』at 宝塚大劇場

 スカイステージの男役10年目みたいな番組で(娘役7年目みたいな番組もやってほしいなーと思っていたらなんかはじまったようだ)聖乃あすかが自分たちがお芝居のうえで虚構の役を演じることを「嘘」と表現していて、その言葉が存外に強く胸に突き刺さってしまったのだった。本人はむしろ言葉を選んだのだと思うし、それは慎重さをさえ伴っていたという印象もあるのだが⋯⋯とはいえ本当に「慎重さをさえ伴っていた」という印象をそのとき自分が抱いたのかはいまとなってはわからない。とりわけファンというわけではなくどちらかといえばある時期まで苦手にさえ感じていた、いまは彼女のタカラジェンヌとしての特質をじゅうぶんに知悉し大いに好ましさと感服をおぼえるものの(『アルカンシェル』観劇からの帰り道、ともに駅へと向かう人波から今作の芝居に起因するほのかちゃん自身への不満というか、そのひとの彼女に対する評価が下向きに再強化されたことを報告する声が耳に届いてしまったので、思わず振り返って「いやいや今回のイヴ・ゴーシェはあくまで物語に対してマージナルな役どころなわけだし、途中でなんかうやむやになるけど、浅野内匠頭やら新聞王ジラルダンやらもまあ煎じ詰めればテクストに対して同じような立ち位置と言えなくもないけど、悪いのは既存のイメージをなぞっただけのいささか安易な配役で安普請の建築をでっち上げた小池先生だから!! いいから黙って『冬霞の巴里』を観て!!!」と叫びだしそうになった、とりわけファンというわけでもないのに)決してみずからの趣味関心の最前線に躍り出てくることはない、若手をようやく脱し中堅に足を踏み入れかけた華々しき花組スターの無思慮でぞんざいな言葉選びにいたずらにダメージを受けてしまったというストーリーを拒みたいがあまりにでっち上げた印象である可能性がないとはいえない。なにせタカラジェンヌにいくら知性や思慮が具わっていたって構わぬのだし。むしろその蓋然性を信じないことより信じることの方が自分にとってはるかに容易いのだから。もちろん彼女が嘘のなかにある真実、本当でないことを演じるという営為を通じて否応なく露呈される「本当のこと」の話をしていたのは明白だろう。それに演劇とは再現芸術なのだからそこで演じられていることに嘘も本当もない、そもそも彼女たちがいま-ここで演じているということは揺るぎない真実なのだから、むしろ舞台の上には「本当のこと」しかないとも言えるのではないか。しかしながら先述の聖乃あすかの振る舞いからどうやら自分は一抹の揺らぎ、躊躇い、それゆえの跳躍のようなものを感じ取ってしまったようなのだ。その些細な違和感が「言葉選びの慎重さ」という印象として整えられてしまったのかも知れないし、やっぱりその些細な引っ掛かりを文章の流れでそう記述してしまったがために記憶の間隙に生じた嘘の印象に基づいて統語レベルでの帳尻合わせが行なわれてしまっただけなのかも知れない。ともかく直感的に『エンジェリックライ』はほのかちゃんへの谷貴矢先生からのアツいアンサーにちがいないというほとんど妄想でしかない確信にベットしてしまったのだ。

 『エンジェリックライ』はファンタジー・ホラ・ロマンと銘打たれ、主演男役・永久輝せあが演じるアザゼルは天界一の大ボラふきと称される。ところで「法螺をふく」とはもともとサンスクリット語の翻訳で、お釈迦様の説法がより遠くまで響き渡ることのたとえであるという。お釈迦様の説法をより広く届けるため、よりわかりやすく、よりとっつきやすく工夫された作り話が、よりとっつきやすく、よりわかりやすく、その結果より広く届けられたことをもって法螺と称される。法螺貝によって吹き鳴らされる音の大きさ、早さ、その届く距離の遠さ。法螺というたとえには「伝わりやすさ」=媒質と、「伝えられる説法」=内容と、「広く伝わった」=結果という三つの異なる様相が内包、統合されているのだ。もちろん現在世俗で使用されている「ホラ吹き」にはそのような用法はないのだから、語源の話は語源の話でしかないのだが、作品に冠され、テーマ曲でも象徴的にリフレインされる「ホラ」という言葉がそもそもは「伝達(経路)」に関する言葉であったことは確認しておいてよいのではないかと思った。

 眼差しもまた(伝達)経路である。男役を眼差し、男役によって眼差されることで娘役は舞台上の視座として観客に成り代わって男役の眼差しを受ける。娘役に眼差されることで男役は初めて自立した一個として舞台に存在できるのだ、というのが凪七瑠海の「花瓶理論」(そんな名前はないが)だった。今作でははるか空間を隔てた上空から、あるいは近くの物陰から、あるいは空間の重なりの隙間から、ずっとアザゼルを観察する四人の天使たちがいる。そしてときに双眼鏡でアザゼルを覗いている美空真瑠を、ときどき詩希すみれを、わたしもまた客席から双眼鏡で見ている。自分はみずからの趣味関心に基づいてむしろ彼女たちをこそ見ているのだが、もちろん彼女たちの姿は観客席からアザゼルとしての永久輝せあを眼差す観客たちの写し絵でもある。地上に堕とされたアザゼルは、エンピレオのレセプションに列席するお歴々の視線を一手に集めながら「みんな俺のことを見ているのか!?」と叫ぶが、大劇場作品とはトップスターの身体の延長なのだから他のキャストの挙動に気を取られて直接は見ていないときでもたしかに「見ている」のだ。しかしそれとは別の回路で、天使たち四人の眼差しを経路としてアザゼルに供給されているものがほかにあるのではないか? という話であり、それこそがこの作品の肝なのだと思う。

 大劇場作品がトップスターを起源とする以上、主演男役は作品原理であり、その真正性は作品の真正性そのものである。トップスターという座標の展開された1/1スケールの地図を、スタッフとキャストがいっせーので一致協力してぶわーっと劇場全体へとひろげていくその過程における具体的かつ物質的な重なりとずれが、はためきと翻りが宝塚歌劇という体験であるに相違ない。もちろんわたしたち観客もまたその端っこをつかんでみんなでバサバサバサーとやっているのだ、まさに天帝のローブの裾を持ち上げてバサバサはためかす、天帝によって選ばれた特にかわいい「お気に入り」にちがいない、二葉ゆゆと琴美くららの二人の天使みたいに。なにせ観客は舞台の彼岸を覆い尽くす舞台装置であり(量的に「尽くさない」ときもあるが)、拍手でリズムを刻み、彼女たちキャストが天高く翔けるための揚力となる音楽であり、舞台中央で物語が進行しているときさえも舞台の隅から隅へと眼差しを駆け巡らせる勝手気ままなダンサーであり、そして何より劇場に全面展開する荒唐無稽なフィクションを真に受ける「ふりをする」ことで観客席に座りつづける演者なのだから。

 永久輝せあは東京宝塚劇場公演初日の挨拶で日常にひそむ姿の見えない「天使」の存在を示唆した。分かれ道の前で足を止めたときに、断崖の前で足がすくんだときに、暗闇の前で振り返りそうになったときに、そっと背中を押してくれる天使とは、フィクションに敷衍すればいわば行間にひそむ駆動原理としての「地の文」であり、つまりそれは「文体」と言ってもよいと思う(「文体」は目には見えない、意識の外側に身体があると言えるように)。アザゼルとラファエルを聞き手としてアズラエル様がみずからの罪を告白する、再現劇として三人を取り巻くように展開する回想の行間に、そのテクストの領野に/として散らばる天使たちはわたしたち観客の写し絵でもある。わたしたちは雨の残像に打たれながら、その滴の影を掌に受け、そっと空を見上げる天使であり、わたしたちのいる場所が彼女たちの声の届く距離なのだ(その上演がうまくいっているかどうかは二階の一番奥の客の反応を見ればわかる、というのは若き日の小林一三が先達より教わったモットーだったが)。

 天使が物質世界に介入できないように、舞台の一部ではあるわたしたち観客もまた物語世界には介入できない。その代わりとしてアザゼルに眼差しを注ぎ、アザゼルの声を聞き、アザゼルの軌道となり、揚力となり、フラウロスを束縛する見えざる手となる四人の天使たちがいてくれる。「みんな俺のことを見ているのか!?」と叫びながらも、誰も本当には見てくれない、本当のことしか言えないのに伝わってほしいことに限って誰も信じてくれない、トップスターの真正性から剥がれ落ちたアザゼルの形をかろうじて天使に縫い止めるのは天使四人のか細い眼差しを伝達経路としたわたしたちの眼差しなのだ。そしてアザゼルの「本当のこと」を、彼が天界においていかに悪童で大ボラふきであるかを誰よりも知るからこそ、その裏に倍音のように貼りつく永久輝せあの真正性の響きを聞き取ることができたラファエルが、その真正性の経路を担うことになる。

 トップスターから届けられる手紙は、主演男役の手によって物語の道筋を経て受け手へと運ばれるものであり、その経路の真正性はすなわちトップスターの真正性である。ラファエルは天使の称号と能力を封じられたアザゼルの代わりに、いわば経路の真正性の肩代わりをして、エレナとフェデリコに手紙を届けた。エレナへと届けられた手紙に綴られたアザゼルの思いはこの作品の辿ってきた物語の道筋そのものであり、アザゼルとともにその物語を辿ってきたエレナにはすでにアザゼルとのあいだに「経路」ができていたのだから、彼女は手紙を受け取る前にすでに手紙を受け取っていたも同然といえるだろう(自分の非を認めしっかりアザゼルに謝罪をして、それでもなお我を通す彼女が好ましい)。他方、ラファエルを経路として届けられたアザゼルの手紙にはじめは半信半疑だったが、手紙とともに届けられたかつてみずからがヴィータに愛の証として贈ったラピスラズリのネックレスによってその内容の真正性を認めざるを得なかったのだとフェデリコは言う。フェデリコからヴィータ=アズラエルに贈られ、アズラエルからアザゼルに託されたネックレスが、島の美しき光を閉じ込めたと嘯かれた「偽ものの輝き」が、アザゼルの手を経ることで、ヴィータ=アズラエルの存在を、フェデリコが彼女とたしかに交わした愛の日々を、アザゼルの真正性を証立てる、かつてフェデリコ自身が出した手紙として彼の元に戻ってきたのだ。まるで大長編ドラえもん『のび太の大魔境』クライマックスのような展開であり、複雑さではないか? もちろんここで思い出すべきなのが『鴛鴦歌合戦』で礼三郎から峰沢丹波守に手渡された「本物」の鴛鴦の香合のことであるのは間違いない。『エンジェリックライ』はお春ちゃんの蛮行により本物か偽物かという「起源」によってその価値が証立てされる価値判断の世界が無効化され、誰から誰の手に渡ったかという「来歴」(経路)によってその価値が証立てされる世界が到来した後の出来事なのだ。

 永久輝せあと星空美咲のお披露目のみならず、凪七瑠海への餞としても見事なテクストだと思う。心の底から恐れ入りました。

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