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「だから、わたしはそうするのよ」と彼女は、人生に向かって、声を出して言った。 ――ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

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「だから、わたしはそうするのよ」と彼女は、人生に向かって、声を出して言った。 ――ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』

最近の記事

異なる床で同じ夢をみる~月城かなとと海乃美月

『Eternal Voice 消え残る想い』の初見の感想で、海乃美月について「かつて読まれ、いま読まれつつある、読まれうるもの」という思いを込めて"テクスト"と半ば発作的に記述してしまったのは、まず第一に月城かなとのスター特性を「読む者」と措定した上で「(自らの短くはないであろう宝塚観劇史にあってこれまで雪組から月組にいたる様々な月城かなとを見てきたけど)やっぱりうみちゃんを読む月城さんがなにより好きだなあ……」という思いがあったからで、それは海乃美月ありきの月城かなと……と

    • 海乃美月を源泉として(または呼び声であるということ)〜『Eternal Voice 消え残る想い』初見の雑感

      月組公演 『Eternal Voice 消え残る想い』のとりあえずの雑感を記しておきたいと思った。まず思ったのは、というかこれはアルファにしてオメガではないかとも思うのだが、この作品は『今夜、ロマンス劇場で』のアンサーではないのか、ということ。また「ロマ劇」か何かとあっちゃこの作品の話ばかりだな!! と我が事ながら思わなくもないが、もともとが映画としてはじめて世に問われた作品を宝塚歌劇に翻案することで二重写し的にその可能性の中心を炙り出した、それだけ「やばい」作品なのだという

      • 綺城ひか理は旅をする〜「ひとあか」線上の『アルカンシェル』

        『アルカンシェル』でも綺城ひか理は叫んでいた。だがその叫びは声として響くことなく、無理矢理に押さえ込まれた怒りや、血がにじむほどに握り締められた慨嘆や、ぶつけるよりどうしようもなかった狼狽や、跳躍とともに吐き捨てられた逡巡や、自ら売り渡すほかなかった誇りに隠れて、物語の水面下奥深くで薄れ、掠れ、欠け、刮げ、汚泥に塗れて消え入りそうになりながらも持続し、最後の最後に長い呻きとしてジョルジュの背筋を伝って首元から這い昇ってきたのだ。虹を渡るかのように階段を降りながら、女性たちに自

        • 綺城ひか理は叫んでいた あるいはわたしは如何にして糸月雪羽に隷属するようになったか

          綺城ひか理が自分にとって特別である理由は、やはり彼女が男役でありながら批評性を持ち得ている点にあるのだと思う。そもそも宝塚の舞台上における批評性とは娘役がほぼ一手に担うものだったはずだ、女性が娘役として女性を演じるという二重の身体を舞台上の"視座"として人身御供のごとく観客にさらしつつ、物語力学の要請下で身体を寄せ、声を合わせ、眼差しを交わしあうという具体的な所作によって男役と関係性を築き、そうすることで身体の二重性がさらに強化されていく。男役が視座としてわざわざその立ち位置

        • 異なる床で同じ夢をみる~月城かなとと海乃美月

        • 海乃美月を源泉として(または呼び声であるということ)〜『Eternal Voice 消え残る想い』初見の雑感

        • 綺城ひか理は旅をする〜「ひとあか」線上の『アルカンシェル』

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          「『タカラジェンヌである前に一舞台人である』前にタカラジェンヌである」ということ~ひとまず『鴛鴦歌合戦』について

          本当にしつこくて申し訳ないのだが、退団公演の大千秋楽で「舞台は生き物だから」と言った真彩希帆を「生き物じゃなくてなまものだよ、まあやちゃん」と幼き者を教え諭すようにやんわりとしかし有無を言わさず諌めた望海風斗には、生田大和との対談で「わたしは宝塚に関しては中華思想」などと言っておきながらさっさと退団した上田久美子と、連載コラムで謙遜のあまり自らを不美人と称した早花まことともにいまだほんのりとした怨嗟を抱いているし(なんなら孫子の代まで語り継ぐ勢いで)、一瞬時間を停止させつつも

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          "添い遂げ"なんてだいきらい〜『うたかたの恋』と『今夜、ロマンス劇場で』を経つつ

          とにかく「"添い遂げ"なんてだいきらい」の一言に尽きる。トップ男役とトップ娘役が同時退団することをその事実のみをもって機械的に"添い遂げ"と称する一部の蛮習のことである。トップスターならびにトップ娘役退団時の記者会見でなぜか定番みたいになっている「結婚のご予定は?」なる愚劣な質問については許しがたく封建的であるのみならず、昨今のタカラジェンヌOGのセカンドキャリアにおける縦横無尽の活躍ぶりとその多彩さを見るまでもなく見ればなおいっそう時代錯誤甚だしい限りで、思考することを放棄

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          「あいだ」の物語、愛の時間~雪組『BONNIE & CLYDE』を観て

          開幕前、閉じた幕(緞帳にはトヨタの文字!)にBONNIE & CLYDEのロゴが映写され、そろそろ双眼鏡のピントを合わせとくかーといつもの儀式としてレンズに両目を当てて舞台の上下をキョロキョロ見渡していると、放射状に真っ白い埃のようなものがステージに向かって飛んでいるのが目に入った。なるほど、どうやら映写の光源はずいぶん低い位置(一階席と二階席のあいだ)にあるようだ。宝塚大劇場だと光は後方はるか頭上から降り注ぐものだった。やがて劇場におなじみ「すみれの花咲く頃」のメロディが流

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          ひとりであること、多数であること~『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』

          自分にとってはどこの席に座ってもその席なりのリアリティをもって観劇体験を持ち帰らせてくれるのが宝塚大劇場という場所だった。お目当てのひとが見えにくくても、誰かしら素敵な上級生はいる、頑張っている下級生がいる、今まで気づかなかった誰かのターンに心を鷲掴みにされるかも知れない、不意に飛び込んできた歌声にはるか異国へと瞬時に連れ去られるかも知れない、誰かのちょっとした振る舞いや声の抑揚に目を瞠るかも知れない。もちろん「前後左右にどのような人間が座るか」(=席運)によって体験のクオリ

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          月を撃つひと〜『グレート・ギャツビー』を観て

          『今夜、ロマンス劇場で』に引き続き、『グレート・ギャツビー』でも月城かなとはいろいろ炙るなあ、と思った。 舞台で小説家を演じ、その数年後にかつて自身が演じた小説家の代表作の、しかもその小説家自身が少なからず投影されているとされる作中人物を演じたタカラジェンヌなどそうそういるはずもない。『グレート・ギャツビー』は演出家・小池修一郎にとって三回目の上演で、一回目は大劇場一幕もの、二回目は外箱二幕もの、三回目は大劇場二幕ものとそのたびごとに規模を大きくし、それに応じて形を変えてき

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          盗まれた結末〜『めぐり会いは再び next generation-真夜中の依頼人-』感想

          なんというか、前々作くらいはたしかスカステで観たんだったかなあ面白かったと思うけど……くらいの認識しかなかった人間としてまず思ったのは、漢字表記の組み合わせパタン多くね??? ということで、まあ「めぐり/巡り、会い/逢い/あい、ふたたび/再び」だからたかだか12パタンではあるのだけど、所詮は後知恵というか、ひとたびパタン多っ……と認識してしまったら後の祭り、けっきょくいまだSNSなり私信なりで自信をもって表記するには到らず、なんならIMEによって提示された過去の入力履歴に基づ

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          『夢介千両みやげ』補遺

          そういえば熱で朦朧とした頭を抱えながら宝塚大劇場公演千秋楽の中継を観ていたら、『今夜、ロマンス劇場で』にて入念に描かれたタカラジェンヌにおける起源の虚構化と、またそれを興行全体をもって裏側から照射し立体化させえたある偶然=符合について思いを巡らせるにあたって、わざわざそのときちょうど観劇したばかりだった『夢介千両みやげ』へと迂回したにもかかわらず肝心かなめのお松について言及するのをすっっっかり忘れていたことに遅まきながら気がつき愕然としてしまった……のをいまさら思い出し居心地

          『夢介千両みやげ』補遺

          劇場で出会うということ〜宝塚大劇場公演・月組『今夜、ロマンス劇場で』観劇の記憶(『夢介千両みやげ』を少し経由して)

          NOW ON STAGE『今夜、ロマンス劇場で』回で月城かなとがやたら作品まわりのメタ構造の話ばかりをしていたのが、ひょっとして無意識下で何らかの否認でも働いたりしているのかしら?? なんて思えて面白かったのだけど、スクリーン内で生起し完結し繰り返される美雪たちの生のあり方について、「まるでわたしたちみたいな……」とぼそりと言いかけたところに折り悪くというか機を見るに敏というか鳳月杏が別の話題をかぶせてきたことで、そのつぶやきはそのまま宙空に霧散してしまった。 プログラムに

          劇場で出会うということ〜宝塚大劇場公演・月組『今夜、ロマンス劇場で』観劇の記憶(『夢介千両みやげ』を少し経由して)

          境界から半歩踏み出す~瀬戸花まりのこと

          瀬戸花まりについて考えることが作品について考える上での大きな刺戟となったのはいつ頃からだったか、少なくとも彼女を舞台テクストにおいてほんとうの意味で「発見」したといえるのはやはり『白鷺の城』だったのだろうなとあらためて思う(広い意味で発見したといえるのは2016年のスカイステージ特番『2017へ夢の掛け橋、みんなで歌ってよいお年をスペシャル!!』で、猫耳をつけて宙組の下級生男役たちを従えひとしきり大暴れしたあとひな壇に戻って「見学モード」に入っていた彼女の耳に外し忘れたと思し

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          メッセンジャーであるということ〜宝塚雪組『Shall we ダンス?』(2014年記述)

           東京公演が始まる前にいちおう。宝塚雪組公演『Shall we ダンス?』について。小柳奈穂子/脚本・演出作は初見。第一印象が「こりゃ少女漫画だなあ」というもので、いわば設定だけは外国ながら人物たちに流れているのは日本人の血、舞台設定は外国だけど考証は表面的で文化風習に現代日本の感性が見え隠れしている、ただただカタカナの名前を持った金髪碧眼八頭身の男たちがたむろして現実離れした会話をしているのが不自然でない絵面を優先させました、みたいな。大らかといえば大らか、いい加減といえば

          メッセンジャーであるということ〜宝塚雪組『Shall we ダンス?』(2014年記述)