劇場で出会うということ〜宝塚大劇場公演・月組『今夜、ロマンス劇場で』観劇の記憶(『夢介千両みやげ』を少し経由して)
NOW ON STAGE『今夜、ロマンス劇場で』回で月城かなとがやたら作品まわりのメタ構造の話ばかりをしていたのが、ひょっとして無意識下で何らかの否認でも働いたりしているのかしら?? なんて思えて面白かったのだけど、スクリーン内で生起し完結し繰り返される美雪たちの生のあり方について、「まるでわたしたちみたいな……」とぼそりと言いかけたところに折り悪くというか機を見るに敏というか鳳月杏が別の話題をかぶせてきたことで、そのつぶやきはそのまま宙空に霧散してしまった。
プログラムにもキャプションとして記載されている美雪の「見つけてくれてありがとう」という言葉は昨今の宝塚で流行っているというか、退団者の挨拶で誰かしらかならず一人くらいは口にしているんじゃないかしらと思えるくらいおなじみのフレーズで、契機は不明だがある時期から明らかに頻出するようになったという肌感覚がある。劇団に数多いるスターのなかでこのわたしを選んでくれてありがとうという意味だろうし、数多の役者が明滅する舞台の上で出番も少なく与えられた役回りも小さなころからわたしを応援していてくれてありがとうという意味でもあるだろう。複数のスクリーン間を渡り歩く俳優ではなく作品内存在として唯一性に生きるキャラクターであるところの美雪が健司に告げるのは前者の意味合いだろうが、だとすれば彼女は自分のような存在がスクリーン外世界に無数にひしめいていることをいつどのように学習したのだろうか。
健司の職場=映画のスタジオを訪れそこで縦横無尽の大立ち回りを演じた美雪が健司の家を出てどこにも行き場がなくなったとき、自分が初めてこの世界を訪れた場所=ロマンス劇場に身を寄せ、そのスクリーンの前で祈るように佇んでいたというその成り行き全体が、あの煌々と輝く「ロマンス劇場」のネオンサインによって同じ小柳奈穂子作演出の『Shall we ダンス?』と深い場所で響き合う。
先日宝塚大劇場で観た雪組『夢介千両みやげ』のことを考えていた。正確には夢介の千両について考えていた。夢介の千両は誰の千両なのか。
夢介は道楽修行に送り出されるにあたって実家から千両を持たされるが、それは直接持たされるのではなくひとまず伊勢屋さんに預けられ、夢介は必要に応じて伊勢屋を訪ねて主人に頭を下げ現金として受け取ることになる。そのお金はおかみさんが伊勢屋の奥から出してくる伊勢屋の金だ。もちろんそれは実家の金である。しかし夢介は具体的に伊勢屋さんからお金を受け取る。実家から夢介へと至るお金の流れは伊勢屋さんで一旦断ち切られ、夢介がお金を受け取ることで「実家から」と「伊勢屋さんから」とに二重化された流れが遡行的に生じることとなる。「為替だぁ」とその仕組みを強調するかのように夢介はお銀に向かってわざわざ言うが、そのお銀はというと真人間修行に勤しみながらも周りからその出自に纏わるイメージに基づいてあらぬ誤解を受けつづけるわけだし、あるいは彼女がオランダお銀と呼ばれるようになるさらに前の姿を知る者である三太が「自分には孝行する親なんていない」と嘯き、夢介から「親なくしてはお前はこの世に生まれていない」とその出自についてこんこんと説教されたりする(さらに三太は幼馴染のお糸とも再会し、彼女の実家で働くようになる)。夢介は嘉平さんに送られて旅に出るが、その嘉平さんは夢介の"経路"の信頼性を担うにはいささか心許なく、「夢介さんの優しさを信じてみたらどうだい」とまだ知り合って日の浅い金の字から諭されてしまう始末。何より夢介本人がしきりに繰り返すように、夢介にとって実家とは来し方ではなく、お銀を連れて帰る行く先なのだ。
幕開きいちばん彩風咲奈がひとり舞台に出てきてひとくさり口上を述べ、物語終了後舞台上に登場人物が全員集合するなか「お手を拝借」と音頭を取り観客を三三七拍子に巻き込む。大衆芝居や紙芝居の拍子木みたいなものだと考えると、舞台上にいながらそれを執り行なう彩風咲奈は作品テクストを纏ってはいるものの一概に夢介であるとは言い難いし、とはいえ彩風咲奈という芸名の身体でそこに立っていると言いきることもまたできない。そして"彩風咲奈"というテクストもまた纏われたものなのだ。二重の物語に同時に所属する身体。夢介の出自は物語内では小田原にあるが、物語外では彩風咲奈にある。夢介の身体は「彩風咲奈の方」からやって来た。逆に夢介として物語世界に生きる彩風咲奈の身体は「夢介の方」からやって来た、と言うことができるだろう。
翻ってみると、月城かなとの「まるでわたしたちみたいな……」というつぶやきはあまりに射程が広く、話が込み入りすぎること必定で、そのことを瞬時に察知した鳳月杏によって意図的に有耶無耶にされたのではないか、などと余計なことを考えてしまったりもする。作品内存在である美雪はそれを演ずる俳優の身体を起源に持つはずだが、スクリーンから作品外世界に出てきた美雪の起源はあくまでスクリーンの中の美雪であり、スクリーン内のそのまた外側より到来した俳優の身体にはもはやない。スクリーンから出てきて健司の目の前にいる美雪はすでにそのように再編されてしまった後の美雪なのだ。視点を変えれば、健司にとって美雪がスクリーン内の存在であったように、美雪にとってもまた健司はスクリーン内の存在である。美雪にとってスクリーンを出るということは別のスクリーンに入るということにすぎない。そしてスクリーンの中には数多のスクリーンが同じように存在しているということを美雪は知る。
健司が映画の中の美雪に対してとれるアプローチは当然ながらただただ映画を観ることしかない。そしてその行為が実は一方通行ではなかったのだということを健司は知る由もなかった。だが健司が美雪を観続けたことによって彼女は映画の外に世界があることを知り、実際にそこへ導かれ、そして世界に数多の"色"というものがあることを知ることができたのだ。美雪が月城かなとの言う「わたしたち」なら、健司は「お客様」である。タカラジェンヌは観客の、ファンの視線によってタカラジェンヌでありつづけることができる。タカラジェンヌでありつづけることで、より高く舞い、より遠くへと声を届けることができる。彼らを支えるファンとの繋がりのかたちを「視線」に集約し、舞台に立ちつづけることで一緒に見ることのできる風景を「色」に集約し、まるで何かの約束を果たすかのように「見つけてくれてありがとう」とお互い口にする。宝塚で上演されることでこの作品は真に完成したのだとどうしても言ってしまいたくなる。
そういえば鳳月杏は俊藤龍之介が悪魔祓いのシーンで披露するトンチキさを「タカラジェンヌとしては別に普通で……(だから歌などに工夫が必要だった)」と述べていたけど、そのおかげかジャズ・オマージュ『FULL SWING!!』で男役力(ぢから)ムンムンでキレのいいダンスや歌を銀橋にて披露する鳳月杏を目の当たりにして、さっきまで別の舞台で見ていた俊藤龍之介がそこにいる!? という軽い錯誤に陥って目がグルグルになってしまう瞬間があった。それってつまりお姫様の姿のままスクリーン=映画から出てきた美雪に対して健司が思ったことと同じなわけで、ということは鳳月杏というひとりの男役の振る舞いによって映画スター俊藤龍之介という起源が『FULL SWING!!』の舞台上に遡行的に捏造され、それに伴い『今夜、ロマンス劇場で』という舞台作品もまた「銀幕」化されたのだと言ってもいいのではないか。二本立ての芝居とショーはそれぞれ独立した作品であるというのが原則であるはずの宝塚歌劇の興行において今回のような批評関係が成立したのは僥倖というほかないし、小柳奈穂子作品の緻密さとミーハーさが良いバランスでミックスされたがゆえの賜物であろうとも思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?