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ひとりであること、多数であること~『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』

自分にとってはどこの席に座ってもその席なりのリアリティをもって観劇体験を持ち帰らせてくれるのが宝塚大劇場という場所だった。お目当てのひとが見えにくくても、誰かしら素敵な上級生はいる、頑張っている下級生がいる、今まで気づかなかった誰かのターンに心を鷲掴みにされるかも知れない、不意に飛び込んできた歌声にはるか異国へと瞬時に連れ去られるかも知れない、誰かのちょっとした振る舞いや声の抑揚に目を瞠るかも知れない。もちろん「前後左右にどのような人間が座るか」(=席運)によって体験のクオリティは左右されるし、それに関しては運を天に任せるほかないのだが、トップスター中心主義を謳いながら、そして実際にそのように組織されているにも関わらず、観る場所によって見える風景が、聞こえる物語が一変しうる、「初回はS席で観るから二回目はB席のうしろのほうにしとこっかなー」みたいな、そこにはっきりとした体験の優劣がない、そういう楽しみ方がどこまで一般的かは知らないが、その体験の多彩さが許されていることこそが宝塚歌劇の醍醐味であるという実感がある。

とはいえ現在の礼真琴率いる星組に限っては、S席が良いとかむしろB席が良いとかましてや立ち見が最善だなんてそんな滅相もない勿体ないミラーボールの裏っ側に腕の力だけでしがみつくでも最後方角っこの泥溜まりに小林逸翁像を抱いて正座でも構いませんのでこのあわれな下人めに劇場空間をほんのわずかなりとも汚すことをどうかどうかお許し願えませんでしょうか――くらいの卑屈さで臨んでしまうのもまた人情というものではないだろうか(そもそも前の席の頭越しでダイレクトに舞台を見渡せるうえ隣のお客さんとも一定の距離を保てる現状にあってはSS席最前列なみに「席運」という概念がほぼ存在し得ないうえに料金が意味不明なくらい激安の「立ち見席」などむしろ分不相応の極みだわ、とさえ思う、疲労で帰宅後はほぼ人間として使い物にならなくなるし、音がふわんふわんとエコー気味なのもご愛嬌ではあるが。人生初立ち見だった星組初演版『スカーレット・ピンパーネル』なんてあの一階最後列の立ち見空間に三列くらいが折り重なってぎゅうぎゅうだったからね……それも含めて伝説に立ち会った感が半端ないのだけれども)。

なにせ100年に1人の男役こと礼真琴なのである。ディミトリが舞台上に姿を現したとたん暗い劇場が光に満たされ、歌いはじめたとたん客席全体が大きな揺籃へと変わる。たちまち生成され輪郭を持ち色づきゆく作品世界に同期するがごとく、観客はいま客席に産み落とされたばかりの赤児として礼真琴に「初めて」再会するのだ。礼真琴はつねに音楽を引き連れて舞台上に現れたし、現れるたびごとに新鮮な驚きをもたらしてくれたものだが、今作においてそれがまた一つの異なる極に達したのではないかという思いがある。

それに合わせるように星組の次回公演が『1789 -バスティーユの恋人たち-』である旨が発表された……のはもう昨年? いまだ礼真琴が二番手男役だった時分、憧れの作品として、あるいはいつか出たい作品として『ロミオとジュリエット』とともに無邪気にその名を口にしていた若き星組生たちが先代すなわち当時の星組トップスターをスルーしてその背後にいったい何を見ていたか、目を輝かせて何を心待ちにしていたかは推して知るべしだろう。すでにして定番であり、様式化されきってほとんど通過儀礼という趣きが強かった『ロミオとジュリエット』を経て、満を持してようやく約束のときがやってきたのだなあとしみじみする。そしてもちろん小池修一郎が愛希れいかのために準主役に据えて潤色したマリー・アントワネットをこれまた満を持して舞空瞳が演じるのだ(※)。なるほどそのための「舞空瞳育成計画」だったわけか、という謎の納得。

※演じなかった。2024年2月5日記

思えば礼真琴がトップスターに就任するまでの本公演や新人公演のキャスティング、組ませる相手役、外箱の作品選び、何ならトップ人事に到るまでの何もかもが「礼真琴育成計画」というに相応しい配剤ぶりだったではないか。そしてもちろん舞空瞳育成計画もまた礼真琴育成計画に包摂されるのだろう。貴種流離譚であり、ディアスポラの物語であり、建国神話でもある『眩耀の谷~舞い降りた新星~』が宝塚大劇場のトップお披露目公演だった礼真琴の満の持し方はまあとにかく類を見ないほどすごかった(設定特盛のうえにオリジナル新作、古代中国もの、ぱっと読めない漢字おぼえにくい意味がわかるようでわからない見慣れないタイトル、と売れそうにない要素も特盛という。いや、大好きだけど)。

王家に捧ぐ歌』の上演が決まったときも、なこちゃんお姫様の次は王女様かー、ことなこって対立勢力で引き裂かれた立場からスタートするパタンばっかりだよね、くらいの気持ちでいたのだが、御園座チケットが休演により煙となって消え去ったため泣く泣く配信で観ていたとき、思いの外なこアイーダの佇まいに心打たれてしまった。そしてたまたまその少し前に夢中で読んでいたナサリア・ホルト『アニメーションの女王たち』のことが思い出され、舞空瞳がどういう娘役かということの糸口がつかめたような気がしたのだった。

ウォルト・ディズニー・スタジオのクリエイションにおいて重要な役割を果たしながらもほとんど顧みられず歴史の隅に追いやられてきた女性アーティストたち。あのたくましくまばゆいディズニープリンセスたちの孤高の遍歴は、スタジオで男たちに遠ざけられ、陽に陰に嘲られ、その仕事を踏み躙られ、成果や名誉を奪われ、あげく歴史から居ないことにされてきた彼女たちの遍歴であり、プリンセスたちの纏うドレスは、彼女たちの無数の手によってなお決死で紡がれてきたか細い糸々の集積だったのだ。個々に独立した作品世界でありながらもその枠組を超えてディズニープリンセスと名指される彼女たちは、ひとりでありながらもつねに多数であり、彼女たちが彼女たち自身であるということがその多数との連帯の表明でもあった。

VERDAD!!』で『リトルマーメイド』や『美女と野獣』を歌う舞空瞳を見たとき、「ディズニープリンセスって本当にいるんだ!!」という感激に打たれたものだけど、彼女はそのとき美しくきらびやかなドレスとしてディズニープリンセスたちを纏っていたのだし、そうであることが可能だったのはまさに彼女自身がディズニープリンセス的な連帯を生きていたからなのだと思う。ロミオの属するモンタギュー家と対立するキャピュレット家にあって父親にいいように庇護されながらも、生き生きとして勇猛で激烈で、でもとても思慮深く冷静さを手放さなかったジュリエット。父親、恋人、殿――媒介=客体として男たちの手から手へと渡されていく存在でしかなかったおゆらの君であることを捨て、見初めた相手の腕のなかで瞳のなかでひとりの人間として事切れたゆら。光ひとつ差さぬ完全なる暗闇のなか、ラダメスというもう一人の王と手に手を携えながらもたったひとりで立ち、暗闇の向こう側を見据えた王女アイーダ。そして彼女たちの友人として連帯の挨拶を送りながらその遍歴を身に纏い、舞空瞳はついにアンジェリークとして(男たち同士でこちょこちょ舞い上がって勝手に自分が王になる気になっているルーチェを後目に)女王の座に手をかけたのだ。

めぐり会いは再び next generation-真夜中の依頼人』をアンジェリークの側から見るなら、というか作品構造の要請上とうぜんそのように見るべきだと思うのだが(交錯する思惑のなかで多重化していく語りや、ルーチェの物語として書かれながら旅芸人一座による舞台テクストとして上演されつつもあるセシルの「書かかれつつある原稿」がオンブル一味によってメモ帳にまで零落させられるという構造の煩雑さによって、ルーチェは物語の主役としてかろうじて生=活かされているにすぎないともいえる)、「影響の不安」により世間から隠されていたアンジェリークが「影響の不安」ごと王の道を引き受ける、というのが話の主軸であり、言い換えるならアンジェリークが次世代として影響を「受ける」ことをおそれる父から、次世代として影響を「与える」ことを彼女自身が選び取る、不安を奪還して裏返す継承の物語であると言えるだろう。

そしてルスダン女王もまた一度は奪われ、蹂躙されたトビリシの街を、自らの故郷を、その存在の根拠を見事に奪還しおおせる。その導き=媒介となったのがほかならぬディミトリであり、そのことと引き換えに彼はルスダンではなくジャラルッディーンの腕のなかで瞳のなかでその生涯を終えるのだ。ディミトリの足音を聞き、それゆえにいっそう明らかなるその不在を胸に抱きとめ慟哭するルスダン、そしてひとしきり悲しんだ後ひとりで気持ちを立て直し、女王として歩きはじめるその後ろ姿を見守るディミトリ。観客はディミトリを媒介してルスダンを眼差し、ディミトリは眼差す存在として観客に眼差されているからこそ、死してなお物語空間に存在することができる。作品冒頭の群舞にて示されるように、この作品は死せる《多数の》媒介者たちの物語なのだ。

ひとりであり多数である、ということ。それは演じる人々がしばしば演じることの動機、醍醐味、喜びとして、ともすれば特権意識さえうかがわせる無邪気さで口にする「誰にでもなることができる」という地平とははるか隔てた出来事であり、誰か(何か)に対する憧れからスタートし、理想と社会的典型の摩擦において自らの男役/娘役像を育てながら、伝統の根城で過去作の再演と新作のあいだを往還しつづけるタカラジェンヌの身体ほどそのことを身をもって感じられる「うつわ」はないのではないか⋯⋯。

初観劇時から思っていた「礼真琴と舞空瞳の歩んできた道程を踏まえたうえで『阿弖流為 –ATERUI–』を生田大和のモティーフに添って語り直したのが『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』なんじゃないか?」という思いがますます強くなった。演出家が意識しているか否かに関わらず、そう書かせてしまうのがスターの引力であり、そうあらしめてしまうのがスターの引力圏なのだと思う。

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