年越せ来た年私のお話#17選手宣誓、あるいは服を着る事について

 こんばんは。透々透です。みゆきです。
 皆様、新年あけましておめでとうございます。今年も昨日までと同じ調子で頑張っていくぞぞぞい。
 と思ったのですが、個人的に書いた「決意表明」をこのお散歩日記に落とし込むことで、自分の決意を固めたいと、そう思いました。私、新年一発目にそんなことをしていたわけです。
 昨日一昨日の日記でfeat痩せ隊をfeatある事に変え隊と言っていましたが、その「ある事」というのが、下の内容になります。下の内容はごく個人的な考えであって、誰か第三者に、社会に押し付けようと言った意図は一切なく、また「化粧文化」について、「化粧を好んでしている人」やそのものについて批判しようという意図も一切なく、自分の顔をあれだけ劇的に変えることが出来るその技術とそこに至るまでに費やした時間や想い、努力をけなそうとは決して思っていません。朝や出かける前に時間をかけてスタイリングをしていること、その労力や練度、かかる費用を経て自分のなりたい姿になっている事はとても素晴らしい事であると思っています。
 同時に、私の考えや思いが矛盾を孕んでいる事にも十分気が付いております。そんな駄文をネットの大海に上げるなという事もありますが、私自身の2022年の目標として、逃げ癖のある自分から逃げたくないという所信があり、ここにその考えを乗せたいと思いました。
 表現に不適切な部分や、誤り、不快に感じられる部分があるかもしれません。先にお詫び申し上げます。私の知識不足です。
 それでもこんなことを想っている人もいるんだと言った事で、乗せようかと思いました。
 お前それは全然違うだろ、こうだよ!などありましたらお聞かせいただければ幸いです。

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さて、私はここに、「2022年の一年を使って可愛い女装が出来るようになる」という目標を立てると宣言したい。
 そのために必要なものは何か、あるいは何が出来るのかを、ここでは考えていきたいと思う。それが、「性表現についての一考――あるいは女装の仕方について」だ。
 人は何を以てその人の性別を判断するだろうか?最も大切なのは、「見た目」である。これは当人にとって見た目以上に大切な事があるという点や、見た目で当人の内面までを図ることは出来ない、と言った文脈で使うものではない。「ジェンダーとして」、自然な、つまり、第三者から見ても違和感のない仕方で振舞えるようになるための大きな指標ということになる。
 残念ながら人間は視覚情報を頼って性別を判断することが多く、従って

①髪型
②顔
③服装
④体形/骨格
⑤仕草
⑥声

という、身体情報及び衣服の情報から性別を判断するのである。例えば、①のみ、②のみ、③のみなど、どれか単一の要素のみを満たしている場合は第三者はその人の性別をより多くの要素が満たされている性別で判断する。すなわち、「髪だけ女性っぽくても、他で男と思われれば女性には見られない」のである。
 よって、より「自然な」仕方を求めるのであれば、これら6要素は相互に必要十分条件を担っており、どこかが欠けてしまうとよりパス度が低くなってしまうのである。特に、②の顔は重要なポイントであり、「メイク」さえしていれば①、③、④、⑤、⑥が多少ともなっていなくても女性として見られる可能性が飛躍的に高まる。
 だが、翻って②のみであると、「メイク男子」という見られ方も考えられ、また⑤⑥以外の全ての要素を「女性」、⑤⑥の双方が「男性」である場合も、「おしゃれ男子」「ジェンダーレス男子」と見られる場合が多い。より確実に女性として見られるためには、繰り返しになるが、①~⑥の要素を網羅的に、ある程度のクオリティで以て満たしている必要がある。
 だが、私はここに問いを投げかけたい――

「化粧をしていなければ、女性ではないのか?」

多くの人が、こう答えるであろう。「化粧をしていないからと言って女性ではないという事はないが、女性であれば化粧をするのは普通の事だ」と。
 しかし、これは矛盾をはらんでいる。「化粧をするのが女性として普通」だ、というのは「化粧をしない女性は普通ではない」、ないしは「相当珍しい」という逆説を含んでおり、その場合、「化粧をしない女性は一般的な女性ではない」という表現になりかねないのではないだろうか?この時、先の問いをもう一度見返してみると、「化粧をしていない女性」は、「少なくとも」「普通ではない」という意味で「女性一般ではない」という言説さえ生まれかねない。
 一見暴論のように見えるが、これは案外そうとも言い切れない論理問題だと思う。それは、日本における「女性と化粧」の強い結びつきが呼ぶ問題だ。今でこそ、「ナチュラルメイク」や「多様性」の旗の元、化粧をしないことを大っぴらに言えるようにはなっているだろうが、それでも公の場で、職場で、大学生で、あるいは「女性になるために」、「化粧をすること」は常に言われることだ。
 それが「男性も化粧をしてもいいのだ」という価値観のもと、徐々に「化粧をする男性」を発信しやすい環境になりつつあるという現状もあるにはあるだろうが、未だ社会は「化粧と女性」を強く結びつけている。CMや化粧品売り場を見れば一目瞭然だろう。
 何も、化粧をすることをやめろ、とそう言いたいのではない。問題は、「化粧」を義務のように、あるいは「服を着る事」、「風呂に入る事」、「歯を磨く事」のように、「生活に必須のこと」のように捉える考え方の方にあるだろう。
 女性の側にとっても、これは難しい問題になる。全ての女性が化粧をしたがるわけでは当然ない(のと同様に、全ての男性が男性に典型的な表現をしたいと思っているわけでもなく、トランス性や中性、無性などの性の人にとっても同様である)。その場合、「化粧をしなければ」という外圧は、精神を傷つける刃になる事だろう。
 私は一人の実践者として、ここに風穴を開けてみたいと思う。
 すなわち、「化粧をする事なしに可愛い男の娘(としての性表現。ここに性自認が男であるという意味は含有しない。これは単に、生物学的にmaleである私がジェンダー的にfemaleの表現を目指すという意味で、その仕方を学ぶのに適した表現の体系が男の娘だった、という事である)になる」というそれだ。
 これを考えた時、必須になる条件が二つある。いや、むしろこれは他の要素よりも大きなウェイトを占める。

声と、仕草だ。

これに関しては、次のように言える。声と仕草は、骨格という変えられない生物学的な特徴に比して、可変性のある特徴である。ここで注意したいのが、仕草は、ほとんどジェンダー由来のものが多いだろうが、中にはセックス由来のものもあるという点だ。例えば、「骨盤」の傾斜。男性に比べ、女性は骨盤がやや前傾しており、従って臀部をやや突き出したような直立姿勢になる。また、骨格のバランスも異なるため、女性は骨格という生物学的な要因から、歩く際に、かかとを接近させるような歩き方、つまり、臀部を左右に振ったような歩き方になることがある。また、男性は脚部の付け根に睾丸と陰茎がついており、特に睾丸は刺激に弱く、そのため閉脚姿勢よりも開脚姿勢の方が比較的に楽であるケースがある。これに加え、股関節が女性に比して硬い傾向もある。
 こうした生物学的な要因によっておこる事もある仕草は、しかし、それが典型になることで、ジェンダーに特有の仕草の項目に挙げられている。この意味では、セックスさえ純生物学的な定義ではなく、社会的に作られた定義にもなり得るのだが、この文脈においては、「練習する仕草」として、極力ジェンダーステレオタイプの影響を排するような方向を志すという意味で、骨格上の差異による仕草への影響という観点を用いている。
 また、声帯面の違いにおいても、男性は声代わりがあるが、女性にはなく、したがって重みのあるエッジの聞いた声から、重みはないがエッジのある声、エッジも弱いが女性的ではない声などと言った高低の幅から、男性/女性に典型な声質という見方が出来る。ここにおいても、より女性的な声に近づけるため、変声期前の男児の声に近づけるようなイメージで声帯のトレーニングをするという意味で、ジェンダーステレオタイプにできるだけ迎合しないような方向を志したいという所信の元述べている。
 さて、以上をまとめると、私は「化粧をせず」「仕草と声」を女性に近づけることで、「女性としてのパス度を上げたい」と考えている。
 これに加えて、「髪型」と「服」の話だ。私が化粧をしない狙いは、実はここにも関係している。
 ジェンダーステレオタイプでは、男性とは「おしゃれに興味がなく、化粧などありえない行為だ」思う存在ということになる。この意味では男性として化粧を志すというのも悪くはないが、そもそも私は化粧が好きではないためそれは却下したい。
 さて、ではこのおしゃれに興味がない男性が「スカート」「ワンピース」「ブラウス」など、「レディース」ファッションを着る事は「許されるだろうか?」
 そもそも、着てはいけない服などないはずだ。最低限のTPOはわきまえる必要があるが、スカートが、ワンピースが、ブラウスが、男性が着るに耐えないものであるとは到底思えないし、その逆であるとも全く考えられない。また、「むさくるしいおっさんがスカート履いていたら見苦しい」という意味で、TPO的にどうか、という意見があるとしたら、それは全く意味をなさないだろう。そもそも、「むさくるしいおっさんがスカートを履いている」ことのどこが見苦しいというのだろうか?
 スカートは若い女性が履くもので(ミニであるほど)、また、脛の毛や脚の筋肉などが男性を感じさせるためにスカートにはアンマッチだから、だろうか?
 では、「脛の毛が見えること」が見苦しさに繋がるのだろうか?であれば、夏場街を歩けば多くの見苦しさに遭遇する事だろう。男性の半ズボンの姿に。
 それに、ミニスカートと言っても、おしゃれを目指し、TPOをわきまえた上で履く短さがどの程度かを考えれば、過度に――それこそ数センチという下着がモロに見えるくらいに――短くさえなければ、問題はなかろう。もしかりに男性の半ズボンが大腿部の「不快な」体毛を露出しないために丈が設計されているのだとしたら、大腿部に体毛が生えている「男性」は全て「不快な存在」になりかねないが、そんなことはない。だからといって露出していいのかと問われれば、腕部の体毛が濃い、半袖のシャツやタンクトップを着ている男性を見てみるといい。男性の体毛を隠すために服が設計されているのならば、「男性用の半そでシャツ」は存在しない。だがそうではない。
 男性が着る夏用のボトムスにショートパンツの丈がない理由は、別にあると考えられる――性器と下着だ。
 女性器は男性器に比べれば平板で、ショーツもそのため肌に密着するタイプのものとして作られている。男性の性器を納める空間を確保するために作られているトランクスを女性が履いた場合、クロッチ部分と性器との間に数センチ以上の隙間が生まれることになってしまう。
 このトランクスはその性質上、女性のショートパンツ程の丈がある(ものもある)。すなわち、「トランクスを履いた男性がショートパンツを履いた場合、下着を露出することになる」ため、それは公共の場に相応しくはないために、男性の夏用ボトムスは女性用のそれに比して丈が長いものが多いのである。と思う。
 だが、男性の下着には「ボクサーパンツ」という、密着型のものがある、大腿部の付け根から三分の一程度をぴったりと覆うこの型のパンツであれば、ベリーショートのパンツは難しいかもしれないが、一般のショートパンツを履くには十分であろう。また、女性のショーツのように、大腿部を覆う布の面積が小さいもののように、男性のパンツも性器を覆う部分を大きく、それ以外の面積は小さくする設計であればベリーショートであれ問題なく履くことが出来る――男性用ショーツや、男性用パンツであり、かつ大腿部の布面積が小さいものもあるが、依然として一般的ではない。
 このように、男性にはジェンダーステレオタイプに基づいた衣服の設計によって、その表現を女性に比して制限されてしまっているという面がある。実際は、何を身に付けようと問題はないはずなのに、社会が男性にスカートやショートパンツを履くことを許容しておらず、同様に、「男性的な髪型」以外の髪型に「ぼさぼさである/だらしない」という印象を与えようともしているように思える。また、「体毛」に関しても、脱毛/除毛/剃毛は女性の責務であり、男性は無関係といった風潮が、ひと昔前までは確かにあり、現在は「脱毛男子」ではないが、「男性と脱毛」という事に関して社会は寛容になりつつある。しかし、いまだに「(フェミニンな)美しさと体毛がない事」の関係は非常に強い。そのため、「脱毛や剃毛が辛い」という女性の声もある――女性は美しくあれ、というステレオタイプ的な要請の結果だ。
 私は、ここにも異議申し立てをしたい。すなわち、クエスチョニングという性自認において、男性である時、ないしは、女性ではないと思う時にも、「レディースファッション」を気兼ねなく身に着けたいと思うのだ。
 これに関して、「ジェンダーレスファッションやユニセックス」が今ファッション業界ではやりつつある。衣服にジェンダースレスの視点を取り入れて、男性も着やすい、従来の女性的な服、という視点だ。
 これは素晴らしい取り組み/流れであると思うが、「男性も着やすい」という部分に落とし穴がある。すなわち、「可愛い/フェミニン/女性的」な服を着たいと思っている男性にとっては、この「ジェンダーレスファッションやユニセックス」は今一つ、足りなさを覚えてしまうものになる可能性があるからだ。
 現在的な「レディースファッション」を、男性でも気兼ねなく着用できるようになって初めて、ファッションはジェンダーレスに、多様的になっていくと言えるだろう。
 以上をまとめると、私は、「表現」の在り方に風穴を開けたい。いや、風穴は無数の先人たちがとっくに開けてくれている。表現を正すとすれば、私は、自分で実践してみたい。
 そのために「男の娘」という表現を使ったが、正直、クエスチョニングである今は自分の性自認に?を付けていることもあり、実践してみてから初めて自分のしたい本当の方向性に気が付いていくという一面もある。それゆえ、「男」の「娘」という言い方が正しいかどうかは、分からない。分からないが、今のところはそう言うしかない。もしかしたら、男の娘を勉強するにつれ、化粧をした可愛い先人たちのようになってみたいと思うかもしれないし、その可愛さに至るまでに費やした時間と努力には脱帽である。
 結局、表現のレベルで目指す方向が、ジェンダーに基づいている以上は、なかなかステレオタイプから完全に離れることは難しいし、また、ステレオタイプを目指す方が早いという見方もあるし、事実それは現状の一面を表している。つまり、生物学的に、そして性自認として男で過ごしてきた時間が長い私が「女の子」ないしは「ジェンダーレス」を目指すときに、「そうではない表現」として、「女の子の典型」を目指す方が早い、という事だ。
 こういったレベルになってくると、ステレオタイプに迎合したくない云々を言っていること自体、また、化粧をしないという考え自体が、どうなのかという話にもなって来そうだが、どれだけ迂遠になっても恐らく私がしたいことは次に集約されているのだろう――それが男の娘と表されるかどうかは別として。

可愛い服を着てみたい、可愛い仕草をしてみたい、声を変えたい、この身体を側だけでも女の子みたいに、ポニーテールに始まって自分のしたい髪型を探したい――。

そんな私(ICH)で、学校生活を、送りたかった。

その叶わぬ望みを溶かしきって飲みこむには、もう遅すぎるけれど。
 今の私の同世代は自分の未来の為に必死に色々頑張っているけれど。
 今の私にとってはようやく見つけた答えを大切にする、そして――。

どうすればその答えにもっと近づけるのか、すなわち――「どんな可愛いなのか」を、模索する事の方が、きっと、重要なのだろう。逃げも迷いも悩みも、他に要因がある事かもしれない。
 例えば、知らない事からはやりたい事など見つからない、と言ったその言葉が示すように、まだ何も知らないだけで、今のままもっと頑張れるのかもしれない。
 でも、頑張ったところで、写真に写るあのスーツの自分が、スーツを着なくてもいいとしても今までの適当にメンズコーナーで選んだ不本意さが混じっている服を着て、どうしてちゃんとふるまえるだろうか?
 そう思ってしまったら、もうやり切るまではちゃんと動けないじゃないか。
 詩を書いた、小説を書いた、吐き出した、でも飲みこみ切れなかった。口腔にはまだ違和感が残っているのだ。
 そして、2021年の最後を通して私は答えを、自分の答えを見つけたのだ。
 だったら、やってみるしかあるまい。
 やりながら、将来の事も考えていくしかあるまい。
 その気持ちが、今の私の本心であり、この2022年を通した目標になるのだ。

※※※

長くなりすぎてしまいましたが、要するに何が言いたいかというと「服買うの楽しくなってきちゃったぜ!」という事です。私は昔から単純ガールでした。
 差し当たっての単純さは、臨時収入を去年までならマリオカート買ったる!と思ったところ、今年は服買っちゃお!になったわけです。
 ともあれ私のお散歩日記は明日からfeat人類(私)男の娘計画という事にしたいと思います。みゆき……ファッションを学べぇ……学ばなければ帰れぇ、みゆき……。
 ちなみにお散歩しながら考えたことなのでギリギリお散歩日記の体裁は保っているでしょう。お散歩日記の締めは一句がつきものですしね。
 では、マスター、いつものを――。
 死にたくない
 4年の幕切れ
 信じない
 透々透


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