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『タイミングの社会学: ディテールを書くエスノグラフィー』 石岡丈昇、2023、青土社 [学生的レビュー no,0 本書との出会い]

本書との出会い

すでに私のTwitterで宣伝(になっているかは怪しい)しましたが、石岡丈昇さんの『タイミングの社会学: ディテールを書くエスノグラフィー』を現在読んでいます。
変な自意識が邪魔をして、Twitterでは当たりさわりのない宣伝を書いてしまったように思いますが、noteはクローズドな雰囲気なので(誰でも見られることに変わりはないけれども)、まあ少しは腹をくくって実際的な話をしていきます。

あと、タイトルにno.0とあるように本の内容には触れないパートなので、
次のパートから読んでもらってもいいです。
これからレビューをしていくうえで、やりやすくするためのパートです。


石岡さんからOKが出ているので言うと、石岡先生と私は、教員ー生徒という関係です。(この点をツイートに入れるかの取捨で、数日悩みました)

高校生の私は、大学でやりたいことが無くて、好きなアニメの文化がなんとなーーくできそうな文学や社会学に受験をしていました。で、受験の激動のなか、自分でもうまく整理のつかぬうちに、気づいたら社会学にたどり着いておりました。

社会学の授業は分野が広く、大体は面白く、割と鬱屈せずにいられました。その中で、群を抜いてインパクトがあったのが石岡先生の授業です。「文化人類学」「差別の社会学」「国際社会論」などを受けてきましたが、(陳腐な言葉ですが)自分の今までの考えや価値観が変わる衝撃を受けます。その衝撃は一過性のものではなく、むしろヒリヒリと残ります。すぐには分からなかったことや理解した気になっていたことが、あるとき、全く関係のないような別の出来事とふいに接続され、見え方が変わることがあります。そうした学びの奥行きが私は好きです。

石岡先生自身や国内外のさまざまな分野の学者が粘り出した、言葉や概念、研究や関心や経験知などが次々と紹介され、あるいは突発的にそれらが顔を出し、どこからが本筋でどこから脱線なのかというくらいのスケール。どっしりとした大木のような知の集積と、そこから次々に枝分かれしていく躍動感が、石岡先生の授業にはあります。


石岡先生に関心を持った私は、先生の出ているYoutube動画をチェックし、時にはイベントにも参加し、先生の専門であるフィールドワークやエスノグラフィーなどの分野そのものにも関心を抱いて、他の方のそうした本も(少々ですが)読んでみたりします。

するとある日、授業終わりに先生から声をかけていただき、ゼミ室に招かれ、二人で話をする機会をいただけたのです!その時に、なんと「サイン付き」で頂けたのが、『タイミングの社会学: ディテールを書くエスノグラフィー』なのでした。

今後の方針

本を頂いたこともあり、普段は見る専でしかないTwitterやNoteで、慣れないながら本に関する発信をしていきます。(本を手にしてから発信に時間がかかったのは、先生に申し訳ないです)

私は平生、本を読み進めていくペースが遅いです。とはいえ、アニメや漫画やバラエティー番組は”消費”できますが、(とりわけ学術的な)本はとても”消費”するという意識ではマズイだろうと、一端の学生ながら思っています。

先述したような、石岡先生の授業の衝撃や余韻が、きっとこの『タイミングの社会学』を読む人にも多々訪れます。しかし、その来訪は受動的ではなく、読み手がどれだけ内容を”膨らませられるか”にも、かかっているようにも私は思います。先生とお話しをした時、先生の授業は「スルメ」だという話になりました。スルメは、噛めば噛むほど味が出ます。

その後、家でふと考えたのは、いかに、そのスルメをすぐに飲み込んで=理解したものとして、胃の中で消化(digest)せずにいられるか、ということです。授業が終わっているにもかかわらず、本を「読了」したにもかかわらず、いつまでも口に入れたスルメを咀嚼できるか。
あるいは、飲み込んだ=理解したはずが、スルメの”消化の悪さ”で違和感として体の一部にならずに残っていることに気づいたり、反芻してもう一度よく噛んでみることで、新たな発見があるかもしれません。(ただの学生がここまで言うのは、さすがに不遜な気がしますが)『タイミングの社会学』はもちろん、あらゆる学びで意識したい、もっと言えば、無意識にそういう態度と共にありたいです。

進路関係が時期的にも個的にもゴタゴタしていて、精神的にしんどい毎日ですが、ボチボチやっていきます。

サムネはUNITÉ(ユニテ) (@unite_books) / Twitterさんから

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