自分の言葉① 小林康夫先生
二〇一八年暮れのことです。
フリーランス校正者として通っている出版社の大理石の床の上に、十五センチくらいの一本糞が落ちていました。目を疑いましたが、どう見ても人糞でした。一階の奥の図書室につづく廊下を歩いていくと、トイレの手前に落ちていたのです。
大理石のビルにはもう十五年余り通っていますが、人糞に遭遇したのは初めてのことでした。あまりにも思いがけない景色だったせいか、たちまち動悸がしてきました。あたりには誰もいません。なぜこんなところに置かれているのだろうか? しかも、まったき姿で?
わたしは急いでいました。書籍の調べ物をしなくてはならないのでした。気を取り直して図書室に入っていきました。必要な資料を探し出し、該当箇所のコピーをとっているあいだも動悸は治まりません。十五分ほどかかって調べ物を終えて戻ってきた時には、それは跡形もなくなっていました。
わたしは落胆しました。
あれは確かに在ったのだろうか、それともまぼろしだったのだろうか?
その出来事があったころから、わたしの心身が変わり始めました。出血がまれになり、体臭が変わり、爪には白い筋が入り、髪も肌も乾涸び、身なりに気を遣わなくなりました。バスタブが跨げなくなり、腕に力が入らず、何をするのも面倒で、部屋は埃にまみれていきました。とりわけ困惑したのは視力の悪化と判断力の低下です。校正ゲラに鉛筆を入れながら、3が8に見えたり、7と書こうとして9と書いたり、「繋がる」を正しい字体の「繫がる」に直そうとして「繁がる」と書いていたり、脳内の接続がおかしくなっているのを感じました。書きかけの単語が途中から書けなくなりました。書き損じが増え、いらいらしました。脳の医者に行くようになり、自分で思い出せるのなら、まだ大丈夫です、と診断されました。今はまだ思い出せる。忘れていることに気がつける。目薬を、ついで眼鏡を忘れる。そのことに気がつける。
明らかな心身の退潮の一方で、思いがけないことが起きるようになりました。むかしの友人に偶然再会したり、愛読する作家のゲラを任せていただけるようになったり、若いころから憧れていた芸術家の方とお話しができたり、そんな仕合わせなことが次々と起こりました。これは今までの感謝を伝えなさいということなのだ、そのための機会が巡ってきているのだと思わずにはいられませんでした。いよいよすべてが終わっていく前兆なのだと。すると、どうしても最後にお礼を申し上げたい方がいらっしゃることに思い至りました。マルグリット・デュラスのテクスト「死の病い」を翻訳された小林康夫先生です。
二〇一九年三月、神楽坂モノガタリに於いて小林康夫先生が対談をされると知りました。雑誌『午前四時のブルー』Ⅱ号刊行記念のトークイベントでした。
わたしは茶色く変色した『死の病い・アガタ』(「アガタ」は吉田可南子訳 / 朝日出版社)を持っていき、対談後のサインの列に並びました。
順番を待っていると緊張で気が遠くなりかけて、こんなふうにのこのこ出てくるべきではなかったのかもしれないと思いました。もう無理だと列から外れかけたちょうどそのとき、小林先生が「わたしに、何か?」と呼び止めてくださったのでした。
わたしは『死の病い』を差し出しながら、一息に伝えました。
先生の翻訳を読んで、デュラスをすべて読み終わるまでは生きていようと決めたこと、まだこうして生きていること、今日はそのお礼に参ったこと。
「それはデュラスの言葉の力ですよ」先生はわたしの上腕にそっと触れて、「今度はあなたがあなたの『死の病い』を書かなくちゃ」とおっしゃいました。
そして本の扉に、フランス語で韻文のメッセージを書いてくださいました。
数日後、先生から次号の『午前四時のブルー』に「『死の病い』というテクストとの出会いについて」書いてみませんか、載せるかどうかはわからないけれど、まずは練習のつもりで書いてみませんかとお誘いをいただきました。
こんな読者がいたことを知っていただけただけで胸がいっぱいでしたのに。そのうえ「死の病い」との出会いについて書くように勧めてくださろうとは。
そんなことは誰一人勧めませんでした。
三十五年前に二十歳のわたしを救った当の文章について書くように、他ならぬその文章を訳された方がおっしゃった。下降する一方の心身をふたたび力づけるような機会をくださった。こんな巡り合わせがあるだろうか? わたしは書くことに同意しました。
はたしてわたしに自分の言葉など残っているだろうか?
閉じ込めてきた記憶を語ることができるだろうか?
すべてが終わりに向かうように感じられる今、せめて記録を残そう、そんな気持ちになりました。少なくとも今は、文章を書く必然がある。
ここに自分の言葉を解禁します。