ずっちの後をつけたこと
2004年の夏になっていました。
その日はよく晴れていて、日差しが強かったのを覚えています。
午後のまだ早い時間でした。わたしは何か必要があって外へ出たんだと思います。とても暑かったので、自動販売機のコーラを買いに出たのかもしれません。
野原のほうに行くと、やや先をずっちが歩いていくのが見えました。声をかけようとして、ちょっとためらいました。なんだか急いでいるように見えたのです。
ずっちは迷いなく角を右に曲がり、通りに沿ってリズムよくトコトコと歩いて行きます。わたしは息を潜めてついていきました。
期待におのずから手足が前に出てしまうような、いわば確固とした目的がある人の歩みです。
もう一度角を右へ曲がると、ずっちの急ぎ足の先に、すらりとした女の人の後ろ姿が見えました。
淡い色の鍔の小さな麦わら帽子をかぶって、紺のフレンチスリーブに、ゆったりとしたベージュの麻のようなパンツをはいて、トートバッグを肩から下げていました。お姉さんは20メートルくらい歩いてから、門扉に手をかけました。
ずっちはすでに駆け出していて、門扉を押して入ろうとするお姉さんに追いつき、サンダルの足に絡まるようにしたあと、お姉さんと一緒に門の中に入っていきました。揺らめくしっぽの残像のなかで、カラカラと引き戸が鳴って、また閉まる音がしました。
*
そのお家はこざっぱりした二階建ての一軒家でした。わたしは今しがた目にした光景をどう理解すべきかわからないまま、呼び鈴を鳴らしました。
玄関の向こうで、小さく誰何する声がします。
「あの、うちの猫が……」
引き戸がゆっくり開いて、麦わら帽子を脱いだお姉さんが顔を出しました。
「すいません、今、うちの猫が……」
「ああ、ヤネちゃんの」
お姉さんは自然な感じで奥を振り返り、澄んだ明るい声で、「ヤネコ!」と呼びました。
「ヤネコ」は、お姉さんの後ろの廊下の太い柱に身をすり寄せるようにしています。
「ヤネコって名前なんですか?」
わたしは苦笑いを浮かべていたと思います。
「物置の屋根の上でよくお昼寝してるんで、屋根子って呼んでるんですよ。呼んだら入ってきてくれて」
「ずっち、おいで!」
奥へ向かって呼びかけますと、ぷいと顔をそらします。
「ヤネちゃん、おうちに帰ろうって」
お姉さんが引き戸を全開にして、助け船を出します。
「ずっち、帰るよ」
「ヤネちゃんはカツオ節をしまってあるところを知ってて、水屋の前で待っているんですよ。よくないなと思ったんですけど、ちょうどうちの猫が死んでしまって。ねえ、ヤネコ」
「ずっち、ヤネちゃんっていうの?」
するとずっちは、勢いをつけて廊下の脇の傾斜の急な階段を駆け上がっていくではありませんか。
お姉さんとわたしは立ったまま、ひとしきり、ずっちのことを話しました。
もうかれこれ一年くらいは遊びにきていること、ご飯を食べ、泊まっていくこともあることなどを聞きました。
ずっちはわたしの知らないところでデュアル・ライフを満喫していたのでした。自分の猫だと思っていたのに、よその家に当然のように入っていき、かつ、別の名前で呼ばれ、半ばその家の猫として振る舞っている現場を目の当たりにするのは、非常な衝撃であり、にわかには信じがたいことでした。
しかし、生来のずっちの生活力を考えると、こうした事態は大いにあり得ることでした。それまでもずっちが戻らないことは何度となくあったのに、わたしはなぜただの一度も、ずっちの二重生活の可能性を考えなかったのでしょうか?
とはいえ、ずっちがわたしという存在に見切りをつけて、より良い飼い主と住み良い家を見つけることにしたとして、それを開拓する能力を持ち、じっさいにその能力を十二分に発揮したとして、どうして責めることができるでしょう? 自分の行動や不甲斐なさを棚に上げ、ただ相手のみに貞淑であれ・誠実であれと命じることはできません。こんにち、安定した老後の暮らしを希求する権利は、猫にもあるのではないでしょうか?
「おうちで何かあったのかもしれないと思っていましたよ」とお姉さんが静かに言いました。
まったく、わたしの目から見ても、こちらのお宅に暮らしたほうが環境が良いのは明らかでした。ここなら大家さんの猫たちに絡まれる心配もありません。つやつやした階段を駆け上がる姿は弾むようで、たいそう楽しそうでした。庭付き物置付き二階建ての一軒家を占領し、猫のことをよく知っているたおやかなお姉さんに世話をされて暮らすこと。猫にとって、これ以上の理想があるとも思えません。
わたしはお姉さんに、通りを隔てた○○さんの家の二階に住んでいる旨を伝えていったん引き上げました。
しばらくして、お姉さんはずっちを上手に抱きかかえて連れてきてくれました。
*
このあともずっちは、しばしばお姉さんに抱きかかえられて、部屋まで連れ戻されることになります。そのたびに、ずっちはお姉さんの腕にしがみついて、きゅっと爪をたて、部屋の中に戻されるのを拒否しました。ほんとうに、お姉さんの家の猫になりたかったのに違いありません。そのほうが仕合わせだったでしょうに、結局このわたしのもとに連れ戻されてしまって……ずっちには気の毒なことをしましたね。