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幻想作家ロード・ダンセイニ交友録:タルボット・クリフトン ~冒険と日本刀を愛した男~

皆様、ごきげんよう。弾青娥だん せいがです。

今回のシリーズ(にしたいと計画中の)記事では、アイルランドを代表する幻想作家であるロード・ダンセイニの交友録を紹介して、ダンセイニの人柄や意外な交流をお見せいたしたく思います。

初めにピックアップする人物は、冒険を愛し、日本刀を愛した英国人のタルボット・クリフトンです。早速、以下からこの人物について解説して参ります。

注:〔〕内の事項は筆者による追記です。



タルボット・クリフトン

生涯

タルボット・クリフトン(1868-1928)

ジョン・タルボット・クリフトン(以下、特筆ない限りクリフトン)は、日本が江戸時代に別れを告げて間もない12月1日、イングランドのランカシャー州に生まれます。赤ん坊だった頃、乳を吸う力が強すぎたせいで母親の乳房にケガを負わせたという逸話があります。

クリフトンはイギリスの名門校であるイートン校(ダンセイニも通いました)と、ケンブリッジ大学のモードリン・カレッジで学業を修めました。14歳の時には、18世紀中盤に建てられ、後年(1965年)にイギリスの国家遺産にリストアップされたリザム・ホール(Lytham Hall)を政治家である父から引き継ぎます。

20歳になるまでに世界二周分の旅程を移動した人物でもありました。生涯において、カナダ、シベリア、インドネシア、アフリカ、南アメリカなどを旅しました。妻となるヴァイオレット・メアリー・ボークラーク(Violet Mary Beauclerk)との出会いも、旅先のペルーでのことでした。

クリフトンは日本も旅したことがあり、世界中を飛び回った夫と日本の接点を、妻が次のように明かしています。

 タルボットが最も重んじたのは、衣服、薩摩焼、刀に加えて、日本から持ち帰ってきたジョメの青銅器〔縄文の青銅器のことか〕です。
 この男は、花瓶にどのように花を挿すかには意味がたくさんあるとヴァイオレットに教えました。ヴァイオレットは、「花を生けるのは歌を奏でること、歌詞を書くことのようです。この喜びを味わう余暇をもっと持てるように譲位した日本の天皇の気持ちも分からなくはありません」と思いました。
 絹でできた鞘から、そして木製の鞘から、タルボットはサムライの刀をよく抜きました。そういった品は数多あまたあります。日本の貴族だけに名の通った特別な要人がこういった刀のおかげで護られたと、ヴァイオレットは教わりました。
 刀を鞘から抜くとほぼ常に、タルボットは礼をして、自分の吐息が刃を汚さないように顔を背けました。タルボット曰く、「日本にて、そうするように教えられたのです。ここにあるような刀は男たちによって造られ、遠い昔から尊ばれてきました。絶食を行なうなか、祈りを込められて鍛造された刀を持つ者は、その刀の魂が宿るようになると言われました。刀身を見るのに長けていれば、鋼のひび、刃文や、へこみに鳥、空、獣のシンボルを見いだすことができます。それにより、刀を持つ者に訪れる運勢や災難が予言されました」

The Book of Talbot (1933) 386-387ページ

この記述から見えるように、クリフトンは刀剣の愛好家でもありました。この人物は日本刀に対する愛が高じて、1905年にFortune Telling by Japanese Swords(邦題をつけるなら「剣相の書」でしょうか)という書籍を限定的な形――出版社のボドリー社の創設者のジョン・レーンによる会員向け頒布用――で刊行します。Cinii Booksを参照すると、共著者として、O'Hamaguchi Sanという名前が見えますが、謎の人物です。(O. Hamaguchiは内閣総理大臣の濱口雄幸はまぐち おさちを連想させますが、浜口興右衛門はまぐち おきえもんという人物をたまたま発見しました。同一人物かは断言できませんが、一つの仮説として挙げておきます。)

Fortune Telling by Japanese Swords 書影
Biblio.comより

会員頒布だったため、インターネット・アーカイブでもヒットしない古書ですが、Nihonto Message Boardのモデレーターを務めるJean Laparra氏の許可を得て一部ページのスキャン画像を以下に借用いたします。

Courtesy of Mr. Jean Laparra
「上下反対になった龍は、刀の持ち主がどのような戦いでも負けるという前兆だ」という、
図3の解説が特に興味深く見えます。

1905年に日本刀にまつわる書籍を刊行していることから、また1901年ごろにシベリアを旅していたことから、クリフトンが訪日していた時期が1904年の日露戦争勃発の前後であることが推測されます。

なお、「剣相」について詳しく知りたい方は、中村圭佑様によるこちらのnote記事をご覧くださいませ。(検索していましたら、巡り会えた素敵な記事でした。)


ロード・ダンセイニとの関わり

ロード・ダンセイニ(1878-1957)

日本にまつわる逸話を持ったクリフトンと、ファンタジー作家のダンセイニは、言わずもがな直接の関わりがありました。

まずは、クリフトン一家側からの記録を紹介します。クリフトンの妻のよる著書The Book of Talbot(1933年)に、クリフトンが1907年頃に接したダンセイニのことが記されています。

 この頃、タルボットは異常なほどにスポーツーー時折のビリヤードと、ゴルフーーに熱中していました。ある日、鵞ペンを手に持ったダンセイニがタルボットにこう言いました。
「ワーテルローの戦いの勝利はイートン校のクリケット場に端を発しました。そうならば、次の戦争の敗北は郊外のパッティンググリーンに端を発するでしょう」
「それでも、素晴らしい勝負です」とタルボットは口にしました。
 すると、このような質問を投げかけられました。「今宵は楽しいですか」
「そんな、とんでもない! 私のゴルフの腕前は、とても目も当てられないものです」とタルボットは笑い飛ばしながら言いました。

The Book of Talbot (1933) 313ページ

フランス皇帝のナポレオン・ボナパルトをセントヘレナ島流刑に追いやったワーテルローの戦いのくだりは、「ワーテルローの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」という引用句に関連しています。(詳しくは、こちらのウィキペディア記事ブログ記事をご覧ください。)

これは、ダンセイニ流のウィットの効いたユーモアが炸裂した一幕だと言えますが、この7年後に第一次世界大戦が勃発したことを考えると、深入りしたコメントを差し控えたくなる内容ではあります。

遅くとも1907年頃に二人に交流があったと考えると、クリフトンがダンセイニに日本滞在時でのことや、日本刀のことも話した可能性も想定されます。

筆者所有のThe Book of Talbot。

加えてダンセイニ側からも、交友に言及がなされています。二冊目の自伝While the Sirens Sleptの第19章から紹介いたします。

この前章で『魔法使いの弟子』(1926年)の執筆に5月8日から取りかかって10月29日に完成させたことをダンセイニは語っているのですが、その期間のさなかにクリフトンの邸宅(1922年に引っ越したスコットランドのキルダルトン城)を訪れています。そのことの回想は、ダンセイニらしい自然観を交えて次のようになされています。

……その年、私たち夫婦は、ストーキング猟〔痕跡などを頼りにして忍んでシカに近づいて捕獲する猟法〕をするため、アイラ島〔スコットランドの島〕に位置するタルボット・クリフトン氏の素敵な住まいであるキルダルトン城に足を運びました。この偉大な旅行家および狩猟愛好家の不思議な個性にまつわる話は、妻によってすでに語られています。日没時に、その住まいにある塔から、丘という丘と、遠くに見えるジュラ島〔アイラ島の隣島〕の山々に一様に当たる陽の光を目にするというのは、夜明けか日没の際の光が山々を照らすことでサハラ砂漠が見せられるものよりも素晴らしい眼福です。アイラ島はスポーツの楽園で、ありとある狩猟のほぼ全てができました。……

While the Sirens Slept (1944) 80ページ

上掲の抄訳のすぐ後に、ダンセイニはタルボット・クリフトンの息子であるハリー・クリフトンに「後ほど手紙で送った詩」に言及しています。こちらも拙訳をもって紹介いたします。


ヘブリディーズ諸島の友人に捧ぐ
To A Friend In The Hebrides

雷鳴のごとく吼えろ、島の雄鹿よ。
君の森での秋の日々が
常に驚異であらんことを。
入江を埋めつくせ、ヒドリガモよ。
撥ねる水しぶきの上空で競うように飛ぶ
北方の地のガチョウよ、
すぐに顔を南方に向けよ。

風が強く吹きつけ、
海岸からアヒルたちが引っ越してくる頃に、
君の食料貯蔵庫が満たされんことを。
原野と薮の鳥とともに、
タシギ、コガモ、ムナグロが大勢で現れんことを。
苦労がはるか上空を飛び、
平穏が君のそばにあらんことを。


ちなみに、このハリー・クリフトンは、アイルランド屈指の詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの喜寿祝いとして中国のラピスラズリの浮彫りを贈った逸話を持つ人物でした。

ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)
ハリー・クリフトンの贈り物がインスピレーションとなり、
Lapis Lazuli (for Harry Clifton)という詩作を残すに至りました。

ダンセイニは同年(1926年)の8月中旬、『牧神の祝福』の執筆にも取りかかります。この小説の執筆を数日間、イギリスのウォリックシャー州のアーデンの森にある廃屋になった農場主の家で行なったとの逸話を明かしつつ、ダンセイニは再びクリフトンの邸宅であるキルダルトン城を訪れ、たくさんのライチョウと4頭の雄鹿を狩りました。この訪問が、ダンセイニにとってクリフトンとの最後の出会いになりました。翌年の1927年、クリフトン夫妻はアフリカへの旅に出て、旅の帰路につくさなか、1928年の3月にカナリア諸島でクリフトンは帰らぬ人となり、ダンセイニとクリフトンの直接の関わりは突如として断たれてしまいます。

ダンセイニの最後のキルダルトン城訪問と近い時期である1927年に、妻のヴァイオレット・メアリー・ボークラークはIslands of Queen Wilhelminaを出版します(Islands of Indonesiaとして1991年に再販されます)。マレー諸島における夫婦の旅のことを記したこの書籍には、ダンセイニによる序文が掲載されていますが、最後の訪問の頃に書かれたものと考えられます。その序文を拙訳の『ダンセイニ書評集』から一部引用します。

……タルボット・クリフトン氏がボス・アノア〔インドネシア固有の水牛〕の頭を勝ち取る話や、他の些細なことについては、この書籍が語るままに任せるが、その全ては興味深く、我々がこの地で日々体験するものごとと比べて、大変生き生きとして新しく色彩豊かである。そのため〈東方〉より出づる未知の風にそよぐ様子がページを捲るごとに私たちのもとに届くように見えるのだ。
 熱帯地方では豊富な生と豊富な死が常に絶えず滅びかかり、クリフトン女史はその地を荒れ果てさせる恐るべき熱病の一種に罹患するにもかかわらず、多くの旅人たちがドイツ〔その植民地であったビスマルク諸島〕で女史が厄介な風邪を引いたことを記録する時ほど、その病の恐怖に対して言葉の重きを置いていないのだ。
 花が咲き乱れるこの島々の民族に我々の工業、倫理、機械を受け入れてほしいという明白な願望を持って女史が彼らに対して近付くことはなく、むしろ追い風に乗った羽のごとく、また鳥の羽のごとく、軽快さを求めつつも鉄でできた羽のような強固な決意と忍耐も求めて、彼らの風習の中を漂っているように見えるのである。

増補版『ダンセイニ卿書評集』16ページ

こちらの序文においても、ダンセイニの工場、機械文明への嫌悪が垣間見えます。が、この序文が世に出た約2年後の1929年に、ダンセイニは息子が駐在するインドに足を運びます。その中でヴァーラーナシーに行った時が、ダンセイニの旅における最東端になりました。

しかし、マレー諸島での旅のことを書いた前述の書籍Islands of Queen Wilhelminaを通じて、ダンセイニの想像力は自身の肉体が向かえなかった、さらなる東の地に到達していたことでしょう。

筆者所有のThe Book of Talbotの扉ページ。

ダンセイニはタルボット・クリフトンからきっと日本と、日本刀のことも耳にしたことでしょう。そして、刀剣の愛好家の助けも得て、アイルランドの貴族作家の想像力は極東の島嶼までにも舞い、その地まで成功裏に届いたことでしょう。

(ダンセイニが目にした「サムライ」という接点で言えば、トンデモ「日本」劇The Darling of the Godsに出てくる10人のラストサムライたちがいることと、侍が描かれた版画をもらったことを忘れてはなりません。)

今回はこの辺で以上です。最後まで読んでくださった方に御礼を申し上げます。ありがとうございます!

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