幻想作家ロード・ダンセイニ交友録:タルボット・クリフトン ~冒険と日本刀を愛した男~
皆様、ごきげんよう。弾青娥です。
今回のシリーズ(にしたいと計画中の)記事では、アイルランドを代表する幻想作家であるロード・ダンセイニの交友録を紹介して、ダンセイニの人柄や意外な交流をお見せいたしたく思います。
初めにピックアップする人物は、冒険を愛し、日本刀を愛した英国人のタルボット・クリフトンです。早速、以下からこの人物について解説して参ります。
注:〔〕内の事項は筆者による追記です。
タルボット・クリフトン
生涯
ジョン・タルボット・クリフトン(以下、特筆ない限りクリフトン)は、日本が江戸時代に別れを告げて間もない12月1日、イングランドのランカシャー州に生まれます。赤ん坊だった頃、乳を吸う力が強すぎたせいで母親の乳房にケガを負わせたという逸話があります。
クリフトンはイギリスの名門校であるイートン校(ダンセイニも通いました)と、ケンブリッジ大学のモードリン・カレッジで学業を修めました。14歳の時には、18世紀中盤に建てられ、後年(1965年)にイギリスの国家遺産にリストアップされたリザム・ホール(Lytham Hall)を政治家である父から引き継ぎます。
20歳になるまでに世界二周分の旅程を移動した人物でもありました。生涯において、カナダ、シベリア、インドネシア、アフリカ、南アメリカなどを旅しました。妻となるヴァイオレット・メアリー・ボークラーク(Violet Mary Beauclerk)との出会いも、旅先のペルーでのことでした。
クリフトンは日本も旅したことがあり、世界中を飛び回った夫と日本の接点を、妻が次のように明かしています。
この記述から見えるように、クリフトンは刀剣の愛好家でもありました。この人物は日本刀に対する愛が高じて、1905年にFortune Telling by Japanese Swords(邦題をつけるなら「剣相の書」でしょうか)という書籍を限定的な形――出版社のボドリー社の創設者のジョン・レーンによる会員向け頒布用――で刊行します。Cinii Booksを参照すると、共著者として、O'Hamaguchi Sanという名前が見えますが、謎の人物です。(O. Hamaguchiは内閣総理大臣の濱口雄幸を連想させますが、浜口興右衛門という人物をたまたま発見しました。同一人物かは断言できませんが、一つの仮説として挙げておきます。)
会員頒布だったため、インターネット・アーカイブでもヒットしない古書ですが、Nihonto Message Boardのモデレーターを務めるJean Laparra氏の許可を得て一部ページのスキャン画像を以下に借用いたします。
1905年に日本刀にまつわる書籍を刊行していることから、また1901年ごろにシベリアを旅していたことから、クリフトンが訪日していた時期が1904年の日露戦争勃発の前後であることが推測されます。
なお、「剣相」について詳しく知りたい方は、中村圭佑様によるこちらのnote記事をご覧くださいませ。(検索していましたら、巡り会えた素敵な記事でした。)
ロード・ダンセイニとの関わり
日本にまつわる逸話を持ったクリフトンと、ファンタジー作家のダンセイニは、言わずもがな直接の関わりがありました。
まずは、クリフトン一家側からの記録を紹介します。クリフトンの妻のよる著書The Book of Talbot(1933年)に、クリフトンが1907年頃に接したダンセイニのことが記されています。
フランス皇帝のナポレオン・ボナパルトをセントヘレナ島流刑に追いやったワーテルローの戦いのくだりは、「ワーテルローの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」という引用句に関連しています。(詳しくは、こちらのウィキペディア記事、ブログ記事をご覧ください。)
これは、ダンセイニ流のウィットの効いたユーモアが炸裂した一幕だと言えますが、この7年後に第一次世界大戦が勃発したことを考えると、深入りしたコメントを差し控えたくなる内容ではあります。
遅くとも1907年頃に二人に交流があったと考えると、クリフトンがダンセイニに日本滞在時でのことや、日本刀のことも話した可能性も想定されます。
加えてダンセイニ側からも、交友に言及がなされています。二冊目の自伝While the Sirens Sleptの第19章から紹介いたします。
この前章で『魔法使いの弟子』(1926年)の執筆に5月8日から取りかかって10月29日に完成させたことをダンセイニは語っているのですが、その期間のさなかにクリフトンの邸宅(1922年に引っ越したスコットランドのキルダルトン城)を訪れています。そのことの回想は、ダンセイニらしい自然観を交えて次のようになされています。
上掲の抄訳のすぐ後に、ダンセイニはタルボット・クリフトンの息子であるハリー・クリフトンに「後ほど手紙で送った詩」に言及しています。こちらも拙訳をもって紹介いたします。
ヘブリディーズ諸島の友人に捧ぐ
To A Friend In The Hebrides
雷鳴のごとく吼えろ、島の雄鹿よ。
君の森での秋の日々が
常に驚異であらんことを。
入江を埋めつくせ、ヒドリガモよ。
撥ねる水しぶきの上空で競うように飛ぶ
北方の地のガチョウよ、
すぐに顔を南方に向けよ。
風が強く吹きつけ、
海岸からアヒルたちが引っ越してくる頃に、
君の食料貯蔵庫が満たされんことを。
原野と薮の鳥とともに、
タシギ、コガモ、ムナグロが大勢で現れんことを。
苦労がはるか上空を飛び、
平穏が君のそばにあらんことを。
ちなみに、このハリー・クリフトンは、アイルランド屈指の詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの喜寿祝いとして中国のラピスラズリの浮彫りを贈った逸話を持つ人物でした。
ダンセイニは同年(1926年)の8月中旬、『牧神の祝福』の執筆にも取りかかります。この小説の執筆を数日間、イギリスのウォリックシャー州のアーデンの森にある廃屋になった農場主の家で行なったとの逸話を明かしつつ、ダンセイニは再びクリフトンの邸宅であるキルダルトン城を訪れ、たくさんのライチョウと4頭の雄鹿を狩りました。この訪問が、ダンセイニにとってクリフトンとの最後の出会いになりました。翌年の1927年、クリフトン夫妻はアフリカへの旅に出て、旅の帰路につくさなか、1928年の3月にカナリア諸島でクリフトンは帰らぬ人となり、ダンセイニとクリフトンの直接の関わりは突如として断たれてしまいます。
ダンセイニの最後のキルダルトン城訪問と近い時期である1927年に、妻のヴァイオレット・メアリー・ボークラークはIslands of Queen Wilhelminaを出版します(Islands of Indonesiaとして1991年に再販されます)。マレー諸島における夫婦の旅のことを記したこの書籍には、ダンセイニによる序文が掲載されていますが、最後の訪問の頃に書かれたものと考えられます。その序文を拙訳の『ダンセイニ書評集』から一部引用します。
こちらの序文においても、ダンセイニの工場、機械文明への嫌悪が垣間見えます。が、この序文が世に出た約2年後の1929年に、ダンセイニは息子が駐在するインドに足を運びます。その中でヴァーラーナシーに行った時が、ダンセイニの旅における最東端になりました。
しかし、マレー諸島での旅のことを書いた前述の書籍Islands of Queen Wilhelminaを通じて、ダンセイニの想像力は自身の肉体が向かえなかった、さらなる東の地に到達していたことでしょう。
ダンセイニはタルボット・クリフトンからきっと日本と、日本刀のことも耳にしたことでしょう。そして、刀剣の愛好家の助けも得て、アイルランドの貴族作家の想像力は極東の島嶼までにも舞い、その地まで成功裏に届いたことでしょう。
(ダンセイニが目にした「サムライ」という接点で言えば、トンデモ「日本」劇The Darling of the Godsに出てくる10人のラストサムライたちがいることと、侍が描かれた版画をもらったことを忘れてはなりません。)
今回はこの辺で以上です。最後まで読んでくださった方に御礼を申し上げます。ありがとうございます!
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