足りなかったのは“愛”と“歓喜”でした。宗教の視点から学ぶありがとうの大切さ。
「足りなかったのは“愛”と“歓喜”でした」
足りない、足りない、足りない。
漠然と感じていた心の空白。
やりたいことをやったはいいが、満たされない気持ちを感じる。
どうしたもんかなと辿り着いたヒントは「感謝」をすることでした。
こんにちは、なりたい人間像は「宗教的なベースを持ちながら、仕事もでき、芸術もでき、何でもやりこなし、本人も素晴らしいうえに、社会もよくなっている」いわゆる、レオナルド・ダ・ヴィンチなタイプを掲げているあきらです。
8月に入ってから、「宗教」の視点で歴史を勉強しています。
「人と動物との決定的な“違い”はどこにあるのだろう?」と疑問を提起している文章を読みました。
疑問に対する著者の主張は『「神という存在に対する認識」の有無が人と動物とを峻別する最たるもの』としている。
うん?このままだと理解が難しいな。
つまり、神を知った時、人類は動物の世界を脱し、神を考えることによって、人類は知性を発達させていった。
ここだけを切り取ると、コイツもしかして、やべえなと思われる方も見えるかと思います。
が、科学が発達していない、はじまりの頃は当時の常識で考えられない事象、例えばカミナリを神の仕業(怒り)と捉え、カミナリがおさまるよう、神に祈っていたそう。
ちなみに道化師(ピエロ)も宗教と結びつきがあります。史記によると、いまで言う発達障害を抱えている人、身体になんらか違いを持っている人のことを、「神の使い」だとして信仰の対象とされていたようです。
さて、本題です。
【感謝の気持ちが人格をつくる】
ありがとうは心を豊かにする魔法の言葉。
ありがとうと感謝の気持ちも持たず、クレクレなんて姿勢でいたら、満足感も感じないよね。
いまの自分がこうやって形づくられ、生きていけられるのは、先祖さまのおかげだと、感じるようになりました。
ここで、あなたにお聞きしたいのですが、「人間の努力でなんでもできる」と思いますか?
実のところ、ぼくは、7月まで自分の力でできると思ってました。
勝手な思い込みで、傲慢なこと…。
感謝を忘れ、我の強さを表しているようで、恥ずかしい。
歴史を紐解くと、日本人の特性は古来より神との共生と融和の思いをもとにして形づくられたとされている。
つまり、「神様に寄っかかって生きなされ」ということ。
自力が強すぎれば、我が出る
他力でやり過ぎると依頼心が強くなって進歩しない
「自力の中に他力あり、他力の中に自力あり」の状態がうまく行く方法だそう。
ちなみに「いただきます」は、神仏のお供えの食べ物を下げて、頭にの上にのせるような動作をして、食事をすることから、用いられるようになったそうですね。
「命をありがとうございます。いただきます。」
はい、日本に帰ってきてから働いている職場で「ありがとう」をたくさん使うようになりました。
自然と、自分の時間を誰かと一緒に過ごしたり、問題を解決するために、使うようになり、とても満ち足りた気持ちで毎日を過ごすことが、できるようになったことが大きな変化です。
足りなかったモノは“愛”と“歓喜”でした。