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健康で文化的な最低限度の生活を営む権利
あんたは生活保護ってキーワードについて考えてみたことがあるかい?
俺たちを取り巻く世界はどんどん自助という言葉の指し示す方向に突き進んでいるってのが実態だと思う。
シンプルに歳を重ねるってことだけでは生きている価値を見いだせず、その重ねた経験をいかにして形にするかってことを求め続けられているのが現実だ。
しかも、俺たちは激動の変化を続ける世界観の中で暮らしているので、ついこの間まで価値を持っていたものがあっという間に陳腐化してしまうってのが現実だ。
つまり、俺たちはいつ俺たち自身が無価値化してしまうかわからないって状況の中で生きているわけだ。
そんな状況の中、生活保護って制度は俺たちが「生きている」状態を維持するために必要な制度だと思うんだよね。
ところが、この生活保護という制度は少なからず「恥」という言葉と結びつくことが多い。
日本は特に村社会なので、この「恥」という言葉は最も忌むべきものとして捉えられている。
そのため、生活保護を受けずに最悪の選択をしてしまうヒトも少なからずいるってのが現実なんだと感じているんだ。
今回はこの生活保護というものについて考えてみる回だ。
なかなかに重苦しいテーマだけれども付き合ってくれよな。
自殺者数の推移
まずは2020年の自殺者数がどんな風になっているかを確認してみよう。
元データ:警視庁
自粛は一時的に自殺者数を減少させたってニュースはもしかしたらあんたも聞いたことがあると思う。
でも、案の定経済的なダメージが見えてきた7月以降は自殺者数が増加の傾向にあることが見て取れる結果になっている。
冷静に考えてみて、毎月1800人ものヒトが自死を選ぶ状況って異常だと思うんだけれどどうだろう?
だって、今まで新型コロナによって命を絶たれたヒトは日本全国で1600人程度だ。
それを超える人数が「毎月」自らの命を絶っている。
コレを当たり前って思えるほど、俺は世界を達観出来ていない。
この数字を見た上で菅総理が言う「自助・共助・公助」って政権運営方針を見たら、「オマイ何いってんの?」って思うんだよな。
自助出来ない状況のヒトがまず自助を考えなきゃいけないって主張は何のためものものなの?
菅さんは官房長官時代からあの手この手で政府の支出を抑えることを推し進めている。
そもそも、小泉政権時代に竹中平蔵さんを副大臣として支えていたことから、緊縮財政ってものが譲れない価値観になっているのかも知れない。
だとすると、その緊縮財政の先にある「自死」という現実をどんな感覚で捉えているんだろう。
経済的な理由ってのは自らの命を断つ理由の一つに過ぎないってのはそうだろうけれど、その一つの理由をケアするのが政治ってやつじゃないのか?
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利
そもそも俺たちは法律の親玉である日本国憲法25条でこんな決まりを持っている。
(1)「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
(2)「国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
出典:日本国憲法
そうなんだよ。俺たちは文化的な生活ってのを営む権利を持っていて、政治はそれを支えることが義務付けられているんだ。
なのにだよ?
日本においては生活保護を受けるべき状況にあるヒトが受けない傾向が顕著なんだそうだ。
2010年の統計になるんだけれども、生活保護が必要な生活水準の人が保護を受けている捕促率はわずか15.3~18%。
つまり8割のヒトが必要なのにも関わらず生活保護を受けていないって現実がある。
なぜこんなことになるのか?
こんなニュースもあったよね。
俺たちは生活保護を「恥」として認識して、個別の親子関係を無視して「親の面倒を見ないって何事!?」って誰かを責めてしまう。
そんなこと言っている状況じゃないのにね。
生活保護ってのは、政府が支出した金額がほぼ完全に消費に回される金額になるので、その規模を拡大すればするほどGDPへの貢献度が高いお金だ。
それに加えて憲法25条の実現に向けて不可欠な要素でもあると思う。
でも生活保護を受けているヒトが「あのヒト、パチンコに行ってたわよ」だとか「あのヒト、お酒を飲んでるんですって」とか言う感覚が横行してしまうって現実。
ああ、もう、そうじゃないべ?
俺たちはみんなで幸せになる必要があるんだぜ?
「あれしちゃダメ」って感覚じゃなくて「コレ出来たら素敵」って感覚にシフトしていかないと、俺たちは俺たちの首を自ら締めていくことになるってそろそろ自覚したほうが良い気がするんだよ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは「誰かを責める」から「誰かと歩く」に感覚をシフト出来ると思うかい?