「勇者」への道
あんたも日々流れてくる訃報のニュースを眺めているかい?
政治家だったり芸能人だったり実業家だったり、実に多くのヒトが亡くなったというニュースが流れてくる。
安倍元首相のケースはちょっと特殊だけれど、基本的に亡くなられたヒトの生前の実績を称えることが多いと思う。
多分、日本の文化としてそう言うことをするのが良いとされているってことなんだろうな。
そこでなんとなく思うんだ。
その褒め言葉って亡くなられた御本人には伝わってたんだろうか?
今回は尊敬を言葉にするってことについて考えてみる回だ。
ちっと無理難題になるかもしれんけれど、付き合ってくれよな。
身近な誰かを尊敬すること
あんたにも身近なヒトっているじゃんか。
家族だったり、仕事仲間だったり、ご近所さんだったり。
接点が多いヒトほど、そのヒトのことを褒めるチャンスって多いはずだよな。
でも俺たちはそう言うヒトほど褒めることをしていないのが実態だと思う。
なんでだ?
やっぱ恥ずかしいからか?
もちろんそれもあるとは思うんだけれど、そのヒトの褒めるようなところがあまりにも日常の前提になりすぎていて、尊敬って感情につながっていかないってのもある気がする。
毎日食事を用意してくれる妻。
俺は料理がほぼほぼ出来ないので、その意味では尊敬に値する事だと思う。
でも俺はそのことに「料理が出来てすごいな」という言葉は発した記憶がない。
仕事でテキパキとチームを切り盛りしてくれているリーダー。
チームを率いるということがどんだけ大変でめんどくさいことなのかを体感している俺も、その的確なチーム運営方法を明確に称える言葉をかけた記憶は無い。
近所のちょっとした異変に気を配って行動をするご近所さん。
気配りの繊細さに驚いたりするものの、やっぱりその行動に称賛の言葉をかけた記憶は無い。
あまりにも多くのヒトの行動によって支えられ続け過ぎて、俺は尊敬と感謝の言葉を発する事ができていないってわけだ。
「すごいな」を言葉に出す勇気
ヒトの構造として、感情ってのが直近の状況の「変化」に反応するってのがある。
その理屈で行けば、「日常」に対して尊敬の感情を引き起こすってのは実のところ無理ゲーに近い。
だからこそ、誰かがお亡くなりになるという究極の「変化」の時にそのヒトに対する感謝の念だったり、尊敬の念って言葉が紡ぎ出されているんだと思うんだ。
芸能人だったら、いつも見ている番組から突如いなくなってしまったような変化。
いつもいてくれた家族の喪失。
そんな変化だ。
いつも隣りにいる誰かについて、俺たちはその存在に対して感謝や尊敬の感情を起こすのが難しい。
でもさ。
そんなん哀しくないか?
俺たちが受けてきた恩恵を与えてくれた誰かが、その恩恵に対する感謝を受けていたなんて事実を知らないまま亡くなってしまうなんて。
そう考えると、俺たちが「すごいな」という言葉を絞り出す勇気ってのが必要になってくる気がするじゃんか。
妻の言葉を振り返ってみる
けれど、実際のところ俺にはその「すごいな」を絞り出す勇気ってのを持てる気がしていない。
なんつーの?
特に目上のヒトを「すごいな」って言うのって上から目線っていうか、失礼な印象になりかねないとか思うし、家族に対してはそもそも気恥ずかしくってモゴモゴしちまう。
そこでふと考える。
あれ?妻が俺にかけてくる言葉に「すごいな」って結構含まれてないか?って。
例えば「みんながあなたみたいに考えられるわけじゃないの!」とか言われた事がある。
これって否定の表現を用いているけれど、「あなたは考えられるヒトだ」って表現でもあるよな。
例えば「今日の着物はどれが良い?」と聞いてくる。
これってセンスを認めているってことを言外に表現しているよな。
すごいな。
妻は実は勇者だったようだ。
その勇気に俺は日々支えられ続けているってわけだ。
なるほど、俺はピーチ姫だったんだな。
#だいぶ違う
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはどうやって「すごいな」を絞り出す勇気を持てると思う?