我慢することと我慢しちゃダメなこと
あんたもいろんなコトに我慢しているかい?
俺たちは仕事でもプライベートでも実に多くのコトを我慢していると思う。
仕事ではえげつないプロジェクトに突っ込まれてもうまくいく道筋なんて誰もわかってない状況の中で、「何とかしろ」という無茶振りを対応していくなんてのは日常の出来事なわけだ。
プライベートなら子育てだとか家族関係の課題だとかは基本無理筋の話ばっかりだよな。
そういう自分の能力を越えているような課題に対してとりあえず俺たちは「耐える」ってことを学んでいると思う。
切れてもなんも良いことないって思うもんな。
でも、場合によっては耐えちゃダメな場合もあるのかもって思うこともある。
今回は我慢をするってことについて考えてみる回だ。
まあ、普段からしている我慢って行為を振り返ってみようぜ。
我慢した方が幸せを呼び寄せること
まずは俺たちが日々やっている我慢を肯定するところから始めてみようか。
例えばなんかのプロジェクトで無茶振りされて、ものすごく残業時間が増えたとする。
多分多くのヒトにとってそれは嫌なことだと思うんだよな。
ただ、このケースでいけば我慢をすることは不可能じゃないと思うんだ。
なにしろ、プロジェクトなので絶対に終わりがある。
何?仕事に終わりなんてないだろって?
そう思うのも無理はないし、そういう捉え方も普通に存在する考え方だと思う。
ただ、プロジェクトマネジメントの教科書とされているPMBOKというドキュメントがあるんだよ。
その中ではプロジェクトというのは「必ず終わりがある」ということが定義されているんだよ。
逆に終わりを定義しないとプロジェクトとしては成立しないと言っているんだよね。
もちろん、終わりのない仕事ってのはある。
人事だとか経理だとかの間接業務には終わりはない。
飲食業における日々の業務についても終わりはないだろう。
ただプロジェクトという「なにかを変える仕事」には必ず終わりがあるってことだね。
この手の終わりのある仕事の場合は我慢ってのがワリカシ有効なケースが多いと思う。
なにしろ、終わりがあるんだから耐えていればなんかしら結果が出て、その嵐は過ぎ去るってスンポーだ。
我慢しちゃ幸せを呼び寄せられないこと
逆に我慢してもどうにもならないこともある。
例えば今起きている戦争だ。
ウクライナのヒトもロシアのヒトも今の状況を我慢していても何も好転しない。
事態を終わらすためには我慢じゃなくて行動が必要だからだ。
でもちょっと考えてみる。
俺がウクライナやロシアのヒトの立場だったらどうしてた?
我慢してないか?
だって俺は消費税が上がったことに対して、ひたすら我慢しているじゃんか。
給料が上がらないことに対してひたすら我慢しているじゃんか。
体調がよくないことについてひたすら我慢しているじゃんか。
そうか。
俺はいつのまにかいろんなことについて「いつかはなんとかなるよ」って希望的観測のもとに日々を過ごしているってことなんだな。
無限に戦い続けるってこと
とは言えだよ。
俺たちは誰しもがその希望的観測って祝福を手放せる訳じゃない。
こうなったらいいな。
ああなったらいいな。
そんな感覚を完全に捨て去って自らの理想のために今日も誰かと戦い続ける。
そんな生き方を誰でも選べる訳じゃない。
そうなんだよな。
戦い続けることと我慢し続けることって二者択一を迫られたとき、俺たちの多くは我慢を選択するんだと思うんだ。
なぜか?
だって俺たちは日本に生まれて育ってきたからだ。
日本は地震に台風にと実に多くの自然災害が起きる。
それゆえに、その自然災害のもたらす苦痛に耐えることを文化的に受け入れているんだと思うわけさ。
なにしろ自然災害には終わりがあるからね。
ところがだよ。
世の中には「終わらせる」という意思を持たないと終わらない苦しみってのが確かにある。
そいつは耐えていても際限のない苦しみを俺たちに与えてくる。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちが抱えている今の課題のなかで、俺たちが耐える覚悟を持つ課題と戦う覚悟を持つ課題をどうやって見極められると思う?
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