義務とマナー
あんたも日々の生活の中、いろんなサービスを利用していると思うんだ。
例えば日々の買い物に使っているスーパーやコンビニ。
移動に使っている電車やバスにタクシー。
ヒトとの接触が伴うサービスってのはこれから先もなくなることはないと思うんだよな。
ところがこれからのニューノーマルな時代において、新しいマナーってのが発生している。
マスクだね。
ヒトと会うのにマスクをするってのが相手に対する安心感を与えるって意味を持つ世の中になっている。
そんな中でタクシーに乗るときにマスクを義務化するって話があるらしい。
コレに対して、堀江貴文さんが反発しているらしい。
んで、そのことに反応しているヒトがそれなりにいるらしい。
今回は義務とマナーってやつについて考えてみる回だ。
ちっと自分で自分を認めることが出来る行動ってやつについて考えてみようや。
堀江貴文さんの主張
一言で言えば、「換気も十分だし、アクリル板もあるし、必要じゃないじゃんか」ってことらしい。
主張としては科学的根拠に基づかない限り、義務化ってのはマズイじゃんかってことなんだね。
なるほど。
科学的根拠が無い限り、義務化してしまうと、意味のない慣習を作り上げることになって、ムダな生活コストを容認することになるってことか。
田村淳さんの主張
で、それに対して田村淳さんの意見はこんな感じらしい。
義務化にしないと、タクシーの運転手さんがお客さんに強くいえないっていうのは、やっぱりそりゃそうだろうし、不安なのは運転手さんだからそこは拭い去ってあげたいなっていう。
なるほど。
問題は科学的根拠ではなくて、気持ちをどうやって落ち着かせるかってことなんだって主張だね。
これはこれでわかるなぁ。
香坂兼人の主張
で、俺の意見なわけだけれども、この科学的根拠に基づいてはいない「マナー」で生じる生活コストとサービスを提供してくれるヒトたちの気持ちを天秤にかけたときに、どちらを選ぶのが自分自身を納得させることが出来るのかってことだよな。
まずサービスを提供してくれているヒトたちのことを考えてみる。
例えばスーパーのレジ担当のヒトっているじゃんか。
あのレジ打ちのスキルってすげーもんがあるってあんたは考えたことがあるかい?
例えばオオゼキってスーパーがあるじゃんか。
あそこのレジ打ちのスキルって業界随一って話、聞いた時があるかい?
スゲーレジでのサバキが早いんだってさ。
それってレジの性能の問題かって?
そうじゃない。シンプルにレジ打ちをどうやったら効率的にこなせるかってことを日々の鍛錬として積み上げているってことなんだそうだ。
どの商品のどこにバーコードがついているかってことを常に新商品が出るたびに記憶して、いかに効率的にスキャナーの前を通り抜けさせるかを考えつつ、かご詰めの効率性を考慮しながらレジ打ちをする。
そう言う弛まぬ努力の上に、俺たちへのサービスが成立しているってわけだ。
ところが、そのレジ打ちのヒトがどんどん辞めていっているって情報も聞くことがある。
それほどヒトとの接触ってのがリスキーだって話が世の中に出回っている結果ってことらしい。
堀江貴文さんの言う科学的根拠がない規制はするべきではないって感覚も分る。そのうえで、対面によるリスク対策がコレで十分だって言う科学的根拠も俺たちはまだ手に入れていないってのが事実だ。
ぶっちゃけ、それがマスクによって救われるとは俺も思っていないよ?
マスクとアクリル板になんの差があるの?って言われたらなさそうっていう感覚は俺にもあるからね。
でも、そのマスクをしていることで、少しでもサービスを提供してくれているヒトに安心感を与える事ができるのであれば、そこには意味があると思うんだ。
でも、その安心感を得るためにタクシーの運転手さんはタクシーに乗るときにはマスクをしてくださいっていう「お願い」をしなきゃならなくて、それに対して「何いってんだよ!」って攻撃的になってしまうヒトが一定数いるのであれば、義務化という方向でお互いを遠ざけるってのは一つの手だとは思うんだよ。
それをもって「過剰」でしょ?っていう堀江貴文さんの意見はわからなくはないんだけれども、サービスがヒトという感情の生き物で提供されているという事実を加味すると、次善の策としては仕方ない部分があるとも思う。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、誰かの気持ちのためにルールで自らを縛るべきだと思うかい?
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