息子の国語教材を眺めて思った
あんたは普段からどんな文章を読んでいるんだろうな?
ネットと言う手段を手に入れてからこっち、俺たちが情報を得る手段ってのは実に多様になっていると思う。
動画を見ることでいろんな考えに触れることも出来るし、オーディオブックなんて言う俺たちオッサンが直面する老眼との終わりなきバトルをフォローしてくれるようなメディアも浸透しつつある。
そんな中で、俺の場合は文字による表現ってのをワリカシ続けてきていると思うんだけれど、この「文章を消費する」ってのはどういう意味を持つもんなのかって考えることってあるかい?
改めて言われると「はて?」ってなる感覚に襲われるわけだ。
そもそも俺たちは文章を消費出来ているんだっけか?とか出口のない迷路に迷い込んじまうやつだよな。
今回は文章を読みこなすってことについて考えてみる回だ。
ちっと俺らの前を通り過ぎていく、大量の文字や文章が俺たちに与えているものについて考えてみようぜ。
息子の勉強を眺める
俺らの日常にあふれている文字や文章。
実に多様なものがあるよな。
新聞・雑誌といった紙媒体のメディアもそうだし、ネット上にそれこそいくらでもある文章の情報なんて全容を把握することも困難なくらいに多様性に富んでいる。
あんたにもお気に入りの小説家とか記者さんとかいたりするかもしれないよな。
でも逆に言えば、気が付かない間に「読みたい文章を読む」ってのが当たり前の日常になっているってのもある気がするんだよね。
そんな事を考えていた時に、ふと目に入ったんだよ。
息子の勉強道具がね。
パラパラとなんの気なしに国語の問題を眺めてみる。
この歌のだ。
「春の夜の夢」とは何か?
そんな問題だった。
うん、これ小学生が解く問題だぜ?
100人いたら100通りの答えが出てくるような問題だと思う。
で、実際の問題はこうだ。
人生や恋の儚さのたとえとして使われている言葉はどれか。
まあ、答えは「春の夜の夢」なわけだけれども、俺としては「かをる枕」にこそ儚さの象徴のようにも見える。
なんだろう?この歌が帰着するのは「春の夜の夢」と捉えるのが自然だと思う。
その上で、藤原俊成女さんがだ。
直接「感じた」ことってのは何だったのかって考えるとさ。
「春の夜の夢」は概念であって「かをる枕」は実態を伴った現実なんだよな。
ちなみに問題では「譬え」という文字で「たとえ」を表現している。
コレは譬え歌と言う和歌のジャンルを意識してのことだと思うんだけれど、譬え歌ってのは「モノにたとえて詠んだ歌」ってことらしいんだよな。
そうだとすれば、なおのこと「かをる枕」こそが人生や恋の儚さのたとえとして使われている言葉じゃないの?
文章と言う読み手と書き手の架け橋
まあ、何が言いたいんだってことなんだけれど、文章という手段を経由した情報のやり取りってのは実に不完全なものだって事実があるってことね。
こんなさ。
試験問題ですら「解釈の余地」なる何者かが存在しちまっているじゃんか。
だったら俺みたいなその辺のオッサンが書いている文章なんて、もっといろんな解釈をされるのが自然な流れってやつだよな。
いや、国語教育そのものが無駄だとは思わないよ?
実際、こういうことを「考える」切っ掛けって自分からはなかなか掴みに行けるもんじゃないと思うしね。
「考える」という経験値がどんな形で世の中に価値を生み出していくのかってのは、定型的な表現で語ることは難しいけれどね。
ただ、この「考える」ってのが読み手と書き手両方が経由するって現実もあると思うわけよ。
だとすればだよ。
やっぱ「考えて」「表現して」「やり取りする」って言う基本を愚直にすすめていくしか無いんだよな。
そして、そのプロセスの入り口はいつだって「考える」なわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
文章を介した俺たちの思いの交錯は俺たちをどこに連れて行くんだろうな?