感情を共有するための理屈

あんたも誰かを攻撃することってあるかい?

ヒトである以上、生きている上で何かを攻撃することって普通におきちまうもんだよな。

自分と家族をまともに暮らしていかせるためにも、襲いかかってくる何かとは戦っていかないとままならないこともあるとは思うんだ。

ところがだよ。
実のところ、この誰かを攻撃するという行為はあまり自分を含めた自分の守りたいヒトを守るって結果に結び付かないことが多い気がしないか?

今回はそれでも俺たちが攻撃という手段を選択してしまうって事実について考えてみる回だ。

ちっと自分の感情の動きってやつを一緒に振り返ってみようぜ。

息子のケンカを眺めてみる

息子は小学四年生。

絶賛クラスメイトと様々な衝突を繰り返している真っ最中だ。
まあ、この頃のガキンチョなんて周りのヒトとケンカしてなんぼの世界だとは思うんだよ。

このときに経験したヒトとの軋轢ってのは人生を過ごす上でかけがえのない経験だと思うんだよね。

で、その軋轢の原因ってやつは、多分本人ではどうすることも出来ないものばっかりだと思うんだよ。

今回のケースで行けば、クラスメイトの多くがイベントに対して真摯に取り組んでいなかった状況を目の当たりにした息子が、その体たらくに鬱憤を溜め込んで、最終的には周りを見ることがうまく出来ない状態になり、イベントが終了したことを認識できずに、イベントの片付けをしようとしたクラスメイトと「なんでまだイベントを楽しんでいるヒトがいるのに片付けるんだ」って状態になったらしい。

いや、どんだけ周りが見えてない状態になっとんじゃって話なんだ。

その周りが見えなくなったきっかけが「クラスメイトが真摯にイベントに取り組んでいないように見えた」ってあたりが救えない。

感情の入口に正義があったってことだ。

これってさ、俺たち大人でも同じようなことが起きている気がしないか?

誰かが「正義に反する」って思った瞬間に誰かのことを無条件で否定できる「権利」を得てしまっているって感覚。

こいつは非常にやっかいな感覚だよな。

感覚でヒトをさばくってこと

今回のケースでは息子はクラスメイトって言うものすごい大きな単位で「他者」を認識したってことのようだ。

その結果として、ルールを破ったヒトとルール通りに行動したヒトを十把一絡げにとらえてしまった。
それが今回のトラブルを引き起こしているわけだ。

つまり、ルールを破ったヒトとルールを守ったヒトが同じ「グループ」と認識することでルールを守ったヒトを正当に評価することが息子にはできなくなっちまったってことだ。

オマイラ、敵だろ?
ならオマイラのやることは何でもかんでも間違いだ。

それってよ?
たまらなく悲しい話じゃんか。

分かり合うことを放棄しているってことそのものなんだもんよ。

理屈が救うもの

こう言うグルーピングでヒトを評価するってのは色んな不幸を招く気がするんだ。

〇〇人はどうこうって判断ってたいていが誰も幸せにしない結果を生み出している気がするじゃんか。

多分だけれども、その感覚って多くのヒトが感じていることなんじゃないかって思うんだよ。

それにも関わらず、俺たちは「あいつは〇〇だから」って感覚で物事を判断する。

そこに全く他者が理解できる理屈がなくてもだ。

それってよ、悲しいじゃんか。
誰に理解される必要もないって他のヒトを切り捨てていくって感覚。

理屈ってのは誰かに自分を理解してもらうための共通言語のはずだ。
その理屈を経由しないで、感覚で誰かを否定するってのはその感覚を共感するための努力を放棄したことと同じだと思っちまうんだよね。

自分の感覚を理屈を経由して言語化しないってことは、自分の感覚の孤独感を強調することしか出来ないって思うんだよ。

そんなの悲しいじゃんか。

そんなの寂しいじゃんか。

だから俺は続けるんだ。
自分の感覚を理屈に変えていくって作業を。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは理屈の先で共感を手にすることが出来ると思うかい?

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