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[モンスターペアレントという言葉]親の出来ること[考えてみよう]

あんたは、学校の先生方とやり取りするようなことがあるかい?

この間中学生になった初めての成績表が夏休み前に帰ってきたやつを眺め直していたんだけれどさ。

ぶっちゃけ成績判定ロジックがまるでわからんのよ。

なので校長先生に電凸してみたんだけれど、個別の成績判断は個別の教科担当に聞いてくれの一点張りだった。

つまり、校長先生自身では細かな成績判断ロジックをコントロールというか理解すらしていないってことだ。

では、その個別の先生に判断基準を取りまとめて提出するようにお願いをしたんだけれど、「無理」の一点張りだった。

理由としては成績判断基準を目的地として勉強を勧めてほしくないっていうのと、そもそもその成績判断のための基準である試験範囲も緩やかにしか決めることが出来ず、今の時点(8月後半)になっても期末テストの範囲すら明示出来ないってことらしい。

もうその時点でおかしさ満載なんだよな。

つまりいま校長先生は「計画を立ててもその通り行かないから計画を立案しない」って言ってますよね?
そう言ったら、立案はしているけれど、それを公開することは公平性を欠くことにつながるから出来ないってことなんだそうだ。

うん?公平性?
どういうことだろう?
全員に試験範囲をあらかじめ伝えることのどこが不平等なんだろう?

曰く、授業は生き物のように対応していく必要があるから試験範囲を確定させてしまうと、遅れが生じているクラスの対応が出来なくなるからってことみたいだった。

もうさ。
学校のガバナンスってなんなの?って思ってしまった。

今回はすまん。俺の学校との会話の備忘録だ。
オモロイ話じゃないかもしれんけれど、そういうこともあるんだねくらいに読んでおくれよ。

通知表のギモン

まあ、出だしは息子の通知表なんだよ。

ぶっちゃけ、中間テスト、期末テストの点数を抑えておいて、その結果としての成績を眺めてみたんだけれど、なんか全然腑に落ちないわけよ。

点数がそんなに取れなかった英語で5段階評価の5をもらったかと思えば、平均80点以上取っている国語で3がついていたりする。

しかもその説明が完璧にない。
教科によってオールA判定なのに4がついていたり、「主体的に授業を受けているか」などという絶対に教師の主観が入るものを全然デジタルに表現していない。

で、校長先生に聞いたわけよ。
ぶっちゃけ、この成績の裏では細分化されている採点項目があって、それがどうにか影響しているってことなんですよね?って。

したらそうだって言うわけさ。

じゃあ、その細分化された評価項目を生徒全員にきちんと共有してくださいね。
ってお願いをしたわけだ。

そしたら、それは出来ないっていう。

なんでだろう?って思うじゃん。
で、「評価項目のデータが無いんですか?」って聞いたら「ある」ってんで、じゃあそれを公開すればいいだけってことじゃないんです?
って聞いたわけさ。

したら、「データはあるけれど、なぜその点数にしたのかはデータにしていない」っていう言い方になってきた。

つまり、例えば10点満点で7点にしたけれど、その理由は教師の記憶の中にしか無いってわけだ。

なんつーか、数値評価と定性評価が全く分類されていない感じ。
そして、それを第三者がチェックするからくりもないときたもんだ。

もう、聞けば聞くほどさ。
使いたくない言葉だってのは分かっちゃいるんだが「常識」がまるで通用しない世界だって感じたんだ。

自分の納得できる資料

で、埒が明かないんで、自分がわかる形の一覧表を作るからそれを埋めてくれって話にしようとしたら、「資料には残せない」と返ってくる。
なぜ?と問いかけると「公平性を欠くことになるから」と言う直接的には理屈が通らない説明が平然と来る。

もう、話が進まないので、ならば同じ資料を見ながら俺がタイピングして資料にするからと言ったら、「まずは息子さんと教科担当で話をさせて欲しい」ときた。

徹底的に資料化を防ぐって姿勢だ。

あれなのかね?
片方が議事録を作るだけで、その議事録が裁判で有効資料として扱われるってことを知らないってことなのかね?

そんなに社会と隔絶した世界のヒトたちに未来を担う子どもたちが任されているっていうのが現実なのか?

とりあえず、自分だったら納得できる説明資料ってのをこさえて、それを妻に見せたら「間違いなくこんな粒度で成績をつけている教師は日本にはいない」と言われた。

いや、単純に中間と期末と提出物として学校から要求されているものを一覧にして、それがどんだけの重み付けで扱われるんですっけって資料なんだけれどさ。

例えば中間テストでの大問1を満点取るのと、日頃の小テストで常に満点取るのではどっちがどれだけ強いの?って話ね。

まあ、教師である妻が言うんだからそれが現実なんだろう。

それほど、教師ってのは「資料化」を嫌うって現実があることを今日は知れたってことから始めようかね。

その前提でね。
今日、校長先生と話した中でも言葉が二転三転するってのがめちゃくちゃあったんだよ。

そのヒトとの会話記録を文字起こししない?
ありえんだろ。
言った言わないになるに決まっているやつだ。

なんつーか、教師のみなさんにとっても、俺たち親にとっても、子どもにとっても誰も幸せにならないプロセスにしか思えんのだよ。

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちに幸せに向かって親が出来ることってなんだろうな?

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