特殊性と平凡性の物語
あんたも発信をするに当たって工夫をこらしているポイントみたいなものがあったりするかい?
久しぶりに俺のnoteのダッシュボードでどんな記事が読んでもらえているのかってのを眺め直してみたんだよね。
俺の場合は一番「スキ」をもらえているのはこんな記事だった。
この記事って俺が毎日やっていることを漠然と振り返っているって感じで特に何かしらのテクをお披露目しているわけじゃないんだよな。
あえて言うなら「発信することの意味は人それぞれで良いんじゃねぇの?」って言ってるだけの記事って感じ。
それだけ切り取ると「そりゃそうだろ」で終わるやつだな。
でもその「そりゃそうだろ」を一歩踏み込んで考えてみると、また違う風景がそこに広がっているような気もしてきたんだよな。
今回は「人それぞれ」について考えてみる回だ。
最近世の中を席巻している「多様性」って言葉についてちっと頭を捻ってみようぜ。
自分の特殊性
まずは、自分にとっての「人それぞれ」って言葉の印象から考えてみるかね。
まずいつも俺が書いていることの繰り返しになっちまうけれど、ヒトって生き物は他のヒトと協力し合うことで生き延びてきた生き物なわけじゃんか。
ヒトという生き物が個体で持っている能力ってのは、他の動物や植物と比べると必ずしも「万物の霊長」を名乗る事が出来るほど秀でているわけじゃない。
それでも、ヒトという生き物が個体数を伸ばしまくって、その生活圏を広げ続けてこられたのは、ヒトが物語を通じて同じ目標に向かうことが出来るという特殊能力を持っていたからなんだよな。
生き物としての特殊性を活かした結果としてヒトはこの地球上で繁栄を勝ち取ることが出来たってわけだ。
ところが、個体が持っている特殊性ってのを活かした生存戦略ってのは実に難しい。
なにしろ、個体としての特殊性ってのはヒトが「協力し合う」って土壌を否定する側面を持っているからね。
特殊すぎる性質は共通の物語として消化する難易度が高い故に廃絶され続けてきたってのが歴史の教科書に嫌ってほど書かれてきた事実だと思うんだよな。
特殊である価値
じゃあ、個体として持っている特殊性ってのは活用することは不可能なのか?
こいつはそう言うことにはならないってのもやっぱり歴史が証明している。
俺みたいな歴史に疎いやつでも坂本龍馬の名前は知っているし、アドルフ・ヒトラーの名前も知っているし、ハンニバル・バルカの名前も知っている。
そのいずれのヒトもそのヒトが生きた時代の中で自分という特殊性を発揮したってのがあると思うんだ。
もちろん善悪みたいなところで語られることも同時に多くなる。
ただ、善悪という概念は得てしてその時代が走っている最中では判断が難しい。
だから、善悪ってのが宗教家と歴史化の専売特許になっているってのがあるような気もするんだよな。
ただ一つ言えるのは、彼ら彼女らの特殊性が残した影響は、確実に今の俺たちが生きている世界を形作っているって現実だけだと思うわけだ。
平凡である価値
で、ふと考える。
俺自身に、そんな歴史上の人物が持っていたような特殊性は備わっているのか?ってね。
結論、備わっちゃいない。
ただ「特殊性が全くない」のかって言われると、それもまた肯定することが出来ない。
完璧な平凡って「何か」が存在しうるとして、そいつを実現するってのがすでに特殊だと思うしね。
なんつー矛盾だ。
でも、そこまで極まった平凡まで行かなくてもさ。
俺たちの中に「平凡」が全くないかって言うと、それもまた違和感があるわけだ。
そう考えると俺たちの中に息づいている「平凡」とどう付き合っていくのかってのがポイントになってきそうな気がするよな。
自分の持っていたい価値
とどのつまりがだ。
俺たちは「どういう自分になりたいのか」って言葉に行き着いちまう気がするわけだ。
なに?お前はどうなりたいんだって?
そうだなぁ。
たぶん、いろんなヒトの痛みと喜びに共感できるヒトになりたいって感じかもしらんね。
共感ってのは単純に相手の意見をまるっと肯定するって意味じゃなくて、真剣に相手の意見ってのを咀嚼するように自分の中に取り入れていきたいって感覚だと思うわけよ。
当然それによって自分も相手も変化することになる。
この変化の時代において変化をしないことほどネガティブな影響を周囲にばらまくことも無いと思ったりもするしね。
いや、その感覚すらも俺の傲慢な特殊性ってやつなのかもな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちの中にある特殊性と平凡性でどんな価値という物語を俺たちは作っていきたいんだろうな?