異文化と知識欲
あんたは異文化交流なんてことを経験したことがあるかい?
俺は仕事柄、直接海外のヒトたちとやり取りすることもあるんだけれど、まあ仕事だから相手の文化的背景まで気を回す余裕はないわけよ。
仕事を一緒にする中で、そのヒトの人格というか性格というか、そういうキャラクターをつかんでいって、コミュニケーションの方法をつかもうとするんだけれどね。
で、昔やったプロジェクトの中でお互いに自己紹介をしようってお客さんが言ってくれたんだよ。
そこで設けられたルール。
「必ず趣味を含めて」ってものだったんだ。
これね。
俺の中で革命的だと思ったんだよ。
そのヒトのことをさ。
めちゃくちゃシンプルに印象に残せる手段だと思ったんだ。
結果、プロジェクトの結束力は見えない何かで高まった気がするんだ。
それ以来、俺は自己紹介の場では必ず趣味を聞こうって思ってやってきている。
誰かを知りたいという欲求は誰にでもあって、その背景にたどり着くためには趣味ってのは実に理にかなっていると思うんだよね。
今回は「相手を知りたい」という感情について考える回だ。
ちっと、俺たちの社会について考えてみようぜ。
フランスでの日本を知る授業
今回、このことを考えてみようと思ったきっかけの動画があったんだよね。
フランスの小学生に対して日本ってこんなところだよって教える授業風景の動画だ。
まずは動画を見てほしいけれど、アニメキャラクターが出てくるだけで大興奮したり、それ以外でも日本の風景を見て奇麗だと感動したり、おにぎり作ったり、折り紙折ったりと具沢山な授業風景だった。
でね。
俺が一番感動したのは、その体験を子どもたちが心の底から楽しんでいるように見えたことだったんだ。
どこかの誰かが住む場所と文化に触れることにね。
この純粋に「ヒトを知りたい」という知識欲ってのはさ。
理由はうまく言語化出来んのだけれど、ものすごい大切なものだと感じたわけよ。
俺が異文化を感じた経験
俺がガキンチョの頃。
小学生になる前とか高校生の頃。
父親の社員旅行みたいなのに同伴させてもらって海外に連れてってもらったことがあった。
高校の時以外はほとんどまともに記憶に残っていないけれど、リアルに日本語じゃない言語を話すヒトってのは感じた気がする。
で、大学に行って母方のおじさんがイタリアに赴任していた時に訪ねたことがあった。
高原の町の広場の教会とか、修復前の「最後の晩餐」を見させてもらったりとか、普通の街中のピザとか、確実に俺の中で感じたことのない経験をさせてもらった。
印象に残っているのは最後の晩餐が描かれている協会の前にたむろしている路上生活をしているヒトの姿だった。
そのころは新宿の地下道にも路上生活をしているヒトはいっぱいいてさ。
段ボールハウスが列をなしていた。
だから路上生活をしているヒトは目新しいものではなかったんだけれど、世界中でそういうケースはホント自然にありうるってのを考えた記憶がある。
異文化を知る意味
俺はね。
よくネットで流れている「日本すげー」的な情報ってのは若干引いた目で見ているんだよね。
なんか「今のままでいいんだ」って自分に言い聞かせてるみたいに思えてさ。
いや、もちろん希望をもって暮らしていく重要性はある。
ただ、それが現状維持を許容するってことになると、その瞬間にヒトってのは衰弱していくってのがあるじゃんか。
ただでさえオッサンともなればだ。
身体能力的に衰えていくわけだしね。
だからこそ、「知る」ことを続けていく大切さってのが際立つと思うんだよ。
ぶっちゃけ、こんだけ情報が流れているのにもかかわらず、俺は世の中のことをほとんど知らない。
なぜカンボジアでポルポト政権が成立したのかも知らない。
アフリカにある国の名前を全部言うことなんて出来ない。
消費税を議論しない政党が第一党になる意味も分からない。
そんな中でね。
異文化と言うシンプルに知らない知識の塊があるわけだよ。
なあ、あんたはどう思う?
異文化と言う何かを知ったときに、俺たちは何を得ることが出来ると思う?