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「いいヒト」という言葉

あんたは誰かを褒めるときに「いいヒト」って言葉を使うことがあるかい?

ふと考えてみると、俺は「いいヒト」って誰かを褒めた記憶がないんだよな。
なんなら言われた記憶もない。
いや、俺が無法者の無頼漢ってわけじゃないはずなんだけれどさ。

仕事っぷりを褒められたこととか、ありがたいことにこのnoteでの言葉遣いとかの特徴に対しての感想をもらえたことはある。

そりゃぁ嬉しいわけよ。
でも、「いいヒト」って言われたとして、そこまで嬉しい感情が生まれるのか?って考えると若干ウン?って違和感がある。

今回は「いいヒト」って言葉について考える回だ。

ちっとこの言葉が抱えている意味について考えておこうぜ。

「いいヒト」って言葉を使うときの感情

さっきもかいた通り、俺自身は「いいヒト」って言葉を使うことはあんまりない。ってか覚えてない。

なので、強制的に誰かのことを「いいヒト」って言葉で表現してみようかと思うんだ。

誰だ?いいヒトって。

例えば、毎日更新仲間のりおんさんを思い浮かべてみる。

いや、たしかにいいヒトだとは思うけれど、そうじゃないんだよな。
何言ってるのかわかんないって?

りおんさんは、俺にとって表現し続けているヒトであっていいヒトって言葉で表現するのはなんか失礼な気がするんだよ。

なんつーの?
スゲーヒトだってのは良いけれど、いいヒトってのはまるっとテキトーに言ってる感じ。
お亡くなりになられた方だけれどもムツゴロウさんをいいヒト呼ばわりするのはなんか失礼な感じがするじゃん。
#通じる?

なんでこんな感覚が俺の中に芽生えるのか?

たぶんいいヒトって言葉が持っている自分本位の感覚ってのがでかい気がするんだよな。

「いいヒト」って言葉が持つもの

「いいのヒト」ってさ、日本語独特の省略された言葉だと思うんだよな。

翻訳サイトで英訳すると「Good guy」って翻訳されたんだけれど、たぶん俺たちの感覚で言うところのいいのヒトの「いい」ってGoodじゃないよな。

いや、まったくGoodが間違っているとは思わないんだけれども、「誰にとって」って要素をすっぽり抜かして表現していると思うんだ。

例えばよ?
極端な状況を想定してみる。

略奪行為を繰り返すテロ組織があったとする。
その構成員が「自分」の街の見知らぬ少女を銃撃しようとしていたとする。
それを見た男がその銃撃しようとしていた構成員を銃撃したとする。
結果として街の見知らぬ少女は無事に助かったが、構成員は命を落としたとする。

この場合「自分」はいいヒトか?

もうちょっと考えてみよう。

いわゆるトロッコ問題。

暴走するトロッコが迫ってきている。
自分の手元にはレールの分岐点がある。
分岐点の先には2つのルートがある。
1つのルートには1人の少年がいる。
もう1つのルートには3人の老人がいる。
トロッコを向かわせた先のヒトはほぼ確実に命を落としてしまうだろう。
「自分」はトロッコを1人の少年のルートに導いた。

この場合「自分」はいいヒトか?

最初の少女にとっては「いいヒト」かもしれない。
次の老人たちにとっても「いいヒト」かもしれない。

でもさ。
最初の構成員を大切に思っているヒトがまるきりいないってのは考えにくい。
次の少年だってそうだ。

そう言うヒトにとっては「悪いヒト」になるはずだよな。

こういうふうに「いいヒト」って言葉は観察者にとっての都合でどうとでも捉えられる言葉ってわけだ。

「いいヒト」の代わりの言葉

とは言えだよ。
誰かのことを素晴らしいと褒めたいことは普通にあるわけじゃんか。

その時に「いいヒト」って言葉を使えないのは、たしかに難しいこともあると思う。

思うにね。
そのヒトの何が素晴らしいと思ったのかってのを俺たちはもう少し具体的に言葉にしていったほうが良いと思うんだ。
「ありがとう」の言葉を添えてね。

俺の場合なら、妻に毎日料理してくれてありがとうとか、りおんさんには毎日なんかしらの刺激をとどけてくれてありがとうとか、仕事仲間には俺と一緒にいろんな顧客に向けた価値を作り続けてくれてありがとうとか。

考えてみると、俺たちの周りには無数の「ありがとう」があると思うんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

「いいヒト」って言う代わりの言葉って何があるだろう?

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