システムと個人と認識と
あんたは翻訳の仕組みを活用することってあるかい?
俺がワカゾーの頃では想像出来なかったけれど、今や生活の中に英語を始めとした他国語が普通に入ってきているよな。
仕事相手と英語でやり取りする。
検索対象に他国語の情報を含める。
動画で英語で表現されたものを見る。
なんつーの?
これって日常になってきているよな。
ただ、俺自身の英語能力やらその他の言語の能力が伸びているわけではない。
やべ、TOEIC最近受けてないな。
英語能力が伸びているかどうかもわかってないってのが正しいか。
でだ。
そんな日常に入り込んできている他国語に対して、俺の場合は翻訳機能を多用している。
仕事での英語のやり取りは翻訳機能を使ってチャットで相手とやり取りするし、英語のページはGoogleに翻訳してもらうし、動画の英語も翻訳字幕が出るやつはそれをめちゃ見ている。
今回は翻訳機能を使うってことについて考えてみる回だ。
俺たちの言語能力ってのの意味についてちっと考えておこうぜ。
いろんな翻訳機能が俺たちに与えてくれていること
まあ、仕事だのなんだのでメインで使う外国語といえば英語だよな。
英語であれば、まあまあ大学までの教育で触れる機会はそれなりにあるから、部分的には理解できる状況ではあると思う。
自らの表現として英語を使いこなすのは難しいけれどさ。
なので、翻訳機能がまともに機能しているのかってのをある程度感覚的につかめる部分はあると思うんだよね。
でもそれが韓国語だったら?
中国語だったら?
ロシア語だったら?
スペイン語だったら?
ポルトガル語だったら?
アゼルバイジャンの言葉だったら?
もう胸を張って言える。
その翻訳が正しいかどうかなんて俺には判断できない。
#いばるな
システムが真実を与えてくれるのか
実際のところだ。
俺たちは、実に多くのシステムに頼りまくっている。
翻訳もそうだし、なんならこのnoteだって情報を分割して伝えてくれている。
それらのシステムを経由して得られている情報ってのの真偽ってのは、俺たちには判断できないってのが実態だよな。
これはブログによる個人の発信の真偽、ネットニュースの真偽、Googleでの検索結果の真偽、動画で発信されている情報の真偽。
ほとんどなんもかんもだよな。
なんならテレビや新聞とかのマスメディアと言うシステムが与えてくれている情報だって同じような見方が出来る。
本質的に俺たちは真実にたどり着くってのは限りなく不可能に近いってわけだ。
集合知と言うもの
確かにだ。
今のGoogle検索にしてもChatGPTにしてもだよ。
全然俺たちの要求にスマッシュヒットしてくれなかったり、なんなら「どっからその情報持ってきた?」って感じの情報を返してくるじゃんか。
おそらくは、今後入力される情報が増えていく事によって「多くのヒトが表現していること」ってのをAIが表現していくことってのは実現するだろう。
で、なんなら、そう言うAIの表現を全自動でSNSやネットニュースで自動的に流されるって世界も出来るんだろう。
それらの情報は俺たちにとって「真実」として認識されるだろう。
だって、見分けつかないもんよ。
いや、ぶっちゃけね?
いま現時点ですら、マスコミのヒトや発信しているヒトの真偽を俺たちは確認するすべを持っていないわけじゃんか。
俺のこのnoteですらだよ。
「おめえ何を持っておめえの言う事の正当性を証明できるんだ」って言われたらその手段を持っていないってのは現実だしね。
だとすればだ。
AIというシステムが俺たちの集合知を拾い上げてくれると言う信頼を獲得したとすると、俺たちは個人の発言にどうやって信頼を持つことが出来るんだ?
だってそうだろう?
「香坂兼人が何を言っている」ってことよか、「みんながどう言っている?」って方が価値がデカいじゃんか。
さらにこれからは多言語の流通に伴う、多様な価値観ってものが跳梁跋扈する世界になるだろう。
なあ、あんたはどう思う?
そんな世界で俺たちは俺たち個人の価値を維持し続けることが出来るんだろうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?