物語が与えてくれるもの
あんたはアニメやマンガに小説、ドラマと様々な形で提供され続けている作品をどんな風に楽しんでいるんだろうな?
ホント、比喩ではなく世界中で作品は作り上げられ続けているってのがあると思うんだ。
そして、ネットという環境によって、その作品が共有される方法ってのは実に多岐にわたるようになってきた。
書籍、雑誌、テレビ、映画、動画配信、円盤系のメディアなどなど。
どのメディアを経由してでもいいから、作品を世の中に届けたいって言う意志みたいなものを感じるよな。
実際、ここnoteでも小説やマンガを描いて俺たちに届けてくれる作家さんもいる。
この本とかnoteで知って買わせてもらったし。
※主張内容が俺と合致してたってのもあるけれど。
今回は作品とヒトについて考えてみる回だ。
ちっと俺たちにとっての作品ってのについて考えてみようぜ。
作品とキャラクター
多くの作品で俺たちを引き付けるきっかけと言えば、やっぱりその作品に登場するキャラクターだと思うんだよな。
あんたもいろんな作品に出てくるキャラクターに魅了された感覚ってあるだろ?
それがアムロ・レイかもしれんし、半沢直樹かもしれないし、マーティ・マクフライかもしれない。
どのキャラクターも作り手の魂を込めて作られているものだと思うんだよ。
そして、そのキャラクターを経由して俺たちはそこにある感情ってやつを自分のなかに再現しているわけだ。
そうなんだよな。
その感情ってのは俺たちにとっての体験そのものだと思うんだよ。
作品とテーマ
ではその作品がキャラクターというツールを用いて俺たちに伝えようとしているものは何なのか。
そいつがテーマってやつになると思うんだよ。
俺がガキンチョの頃のマンガとかだと、このテーマってのがワリカシ置き去りになっていた印象が強いんだよな。
北斗の拳のテーマって言ったら何になると思う?
あえて言うと「友情」ってことになると思うんだけれど、それってジャンプ全作品の根底に流れるテーマじゃんか。
北斗の拳オンリーのテーマってのは言い難い気がするわけだ。
でも、最近の作品ってさ。
ワリカシ作品で表現するテーマってのを決めて作られているものが多い気がするんだよな。
言い換えれば、昔の作品ってのがキャラクターありきで描かれていたのに対して、今の作品はテーマありきでキャラクターを使っているって印象があるんだよ。
その意味では今の作品の方が俺の好みではあるなぁ。
作品と感情
作品を作る側としては、表現したいもの、つまりはテーマってのが重要だってのが基本だとは思うんだ。
それは俺たちがガキンチョの頃も同じだとは思う。
違うのは「作者が求められているもの」ってのだと思うんだ。
言い換えるなら俺たちコンテンツ消費者が求めているものってことだ。
これさ。
めちゃくちゃ難しいと思うんだよ。
俺たちが何を求めているのかってことを、言葉にしたことなんてないべ?
あえて言葉にするとだ。
きっと「体験」なんだよな。
俺たちが作品に求めているのは、その物語から受け取る「体験」だ。
そう定義してみようぜ。
じゃあ、その体験ってのは何によってもたらされるものなんだ?
それってさ。
感情だと思うんだよ。
俺たちは喜怒哀楽なんて言葉で象徴される感情とともに暮らしているわけじゃんか。
この感情ってのが実に厄介で、「この感情を持ちたい」と思っても、その感情ってのを得ることは難しい。
反対に「この感情を持ちたくない」と思っても、その感情を排除することは難しい。
でね。
感情を排除することは、ある種の修行みたいなことをしないと出来ない感じがあるけれど、感情を得たいという願望はかなえることが出来る気がするんだよ。
それが作品なんだと思うんだ。
作品に登場しているキャラクターの感情を想像することで、俺たちはその感情をまるで自分の感情であるがごとくに再現することが出来る。
そして、そのキャラクターの感情を自分のものだと感じることを許してくれる免罪符。
それが作品のテーマなんじゃないかって思ったんだよな。
なあ、あんたはどう思う?
作品が俺たちに与えてくれる「何か」ってのの実態はなんだと思う?
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