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子どもと大人の成長

あんたは最近なんかの節目の日ってのを体験してたりするかい?

2024/03/25。
俺の息子は小学校を卒業した。

いや、だからどうしたって言われるとぐうの音も出ないんだけれどさ。
たださ。
俺らオッサンにとっては6年なんてあっつーまじゃん。

そのあっつーまの時間でさ。
息子はだいぶ変化したと思うんだよ。

もちろん本質的なところでは変わらない部分もいっぱいあって、それが彼自身の気持ちを安定させることもあれば、神経を逆なでされるように作用することもある。

今回は息子の変化した部分について記録しておこうって回だ。

まあ、俺の備忘録に過ぎないんだけれどさ。
ちっと付き合ってくれよ。


体がデカくなった

まあ、当たり前ではあるけれど、体はデカくなった。
もう少しで妻の身長を抜かす感じだね。

声変わりもして、一時期ガラガラ声で声が聞き取りにくいような時期もあった。

妻はどうも低音域の声を聞き取るのが苦手らしく、俺や息子の言うことを何度も聞き返すようになった。

体力的にもワリカシついてきてみたいに見える。
まあ、言ってもいわゆるスポーツマン的な体力は身に着けていないけれどさ。

体力がついたことでいろんな作業をある程度の時間継続してやることが出来るようになった。

そうすることで自分が出来ることの範囲が広がっていったんじゃないかって思う。

意思決定をするようになった

出来ることの範囲が広がったことによって、息子は自分の意志を表現するようになってきた。

小学校に入りたての頃は、当たり前だけれども感情に振り回されることも多かった。

今も感情に振り回されることは多いけれど、それでも嫌がっていた勉強を自分から計画を立ててやるようになったり、いろんな物語を自分なりの解釈で理解しようとしたりするようになった。

たぶん、もう少しすれば俺の意見に対して論理的に批判するようになるだろう。

それってさ。
めちゃくちゃ楽しみじゃないか?

例えば政治に対する意見を息子からぶつけられて「父さんの考え方は矛盾しているよ」なんて言われるとかさ。

他者の考えを意識するようになった

これも当たり前だけれども、周りにいるヒトのことを小学校に入るまでは感情だけで判断していたように見える。

そらそうだよな。
そもそも相手のことを考えるための材料としての知識が圧倒的に足りない状態なんだもんよ。

で、いろんな知識が自分の中にたまっていくと、「なんであのヒトはそう考えたんだろう」って考え始める。

相手の考えを想像し始める。

まあ、当然今でも感情の方が優先されるから「あいつ嫌い」で終わっちまうんだけれどさ。

「なんでだろうな?」って問いかけてみると、息子なりに「考える」わけよ。

知識と言う手持ちのカードがあることを徐々に意識している感じ。
自分だったらどうするかって考える感じ。

まあ、俺が「考えろ」って圧をかけてるせいかもしれないけれどさ。

息子の変化への俺の対応

でね。
俺自身は息子ほど劇的な変化をしていないわけよ。

いや、客観的に見たら変化を感じているヒトももしかしたらいるかもしれないけれどさ。

俺自身は自分の変化ってのを感じてないんだよな。

その変化しない自分がだ。
変化し続けるであろう息子にだ。

どう対応していくんだろうな。

息子に向かって「変化するな」とは口が曲がっても言えない。
だって世の中はそれよりも早く変化し続けているんだから。

今はまだ、世の中の変化に自分の解釈をつけて自分の中の意見にすることが出来ている部分もある。

その範囲がどんどん狭まっていく中で、俺はいつか息子に解釈の柔軟さでついていけないようなことも起きるんだろう。

そうなったときにさ。

俺は息子に何を与えることが出来るんだろう。

なあ、あんたはどう思う。

この後戻りの出来ない時と言う流れの中で、俺たちは誰に何を伝えていけると思う?

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