[子育て]愛ってなんだ[俺たちの社会]
あんたは子育てを立派にやっているぜと胸を張れるかい?
そうたいさんに、紹介してもらったんだけれど、俺が学校教育現場について書いた記事を取り上げてもらいつつ、そもそも子育てとはっつー感じの展開をしてもらっていた。
なんだろう。
めっちゃ一言にまとめると「愛」だろ。
何?愛ってなんだって?
そんなこと俺にわかるか!(開き直りの術)
確かギャバンはためらわないことだって歌ってたな。
息子に聞いたら「お父さんから聞いたから知ってる」って言われたけれど、まあどうなんだろうな?今のネット社会なら知ってる小中学生もいるかもな。
でだ。
子育てが愛だとしてだ。
ためらっちゃいけないわけだな。なるほど。
#論理展開の飛躍をオモロイに変換する高度な文章術
まあ、無理くり話をちょびっとだけ戻すとだ。
愛情を持って子育てする必要性ってのは、何となくだけれども疑いようがない話だと思うわけだ。
ただ、それがどう言う表現として現れるのかってのは、それこそ親と子の組み合わせの数だけあるような気がする。
たとえば、そうたいさんの記事に「買って買って~」って駄々をこねる子どもの風景が表現されていた。
俺としては「ああ、普通の光景だよなぁ」と思いながら、ふと思ったんだよ。
「そういうシーン、最近見てないぞ?」ってね。
今回は子どもへの愛情って壮大なテーマにドン・キホーテの如く挑んじゃろうって回だ。
ちっと、せっかくだから自分の中と外にある愛情っていう形のないモノについて考えてみようぜ。
子どもの要求
子どもってのは生まれた瞬間から「不快」って状態を味わいながら過ごしていると思う。
なんつっても出産とか言う奈良の大仏様の鼻の穴をくぐるより大変なことを生まれるときにこなさないとならないわけだもんな。
#伝われ
文字通り命がけで生まれてくるわけだ。
で、そうなってくると子どもの世界との関わり方の基本は「不快にどう対処するのか」って事になってくる。
腹減った。
おしめが気持ち悪い。
遊びたい。
なんかよくわかんないものが見えて怖い。
実に多様かつ大人になると想像がうまく出来ない不快感に苛まれていると思う。
赤ん坊の頃でもそうだけれど、徐々に育って幼稚園やら保育園やらから始まって、小学校、中学校、高校、大学、なんつー「社会」にさらされるわけだ。
各々の社会で経験する体験ってのは多分俺自身のことを思い返すと全然異なる部分もあれば、延長線上で把握できることもあったけれど、「不快」がなくなることはなかった。
いや、オモロイこともいっぱいしたぜ?
例えばシャーペンの芯をだな(以下略:真似すんな)
※ちなみに小学校でシャーペンを使わせない理由のひとつらしい
言いたいのは、子どもが大人になったとて、その「不快」はなくならないってことを大人の俺たちは知った上で子どもに対応しているってことだ。
でも「不快」な上で、それを自分でなんとかすることも出来ないから、子どもは誰かを悪者に仕立て上げざるを得ない。
「親が悪い」
「先生が悪い」
「社会が悪い」
そこまでこじれてくると、なかなか社会に戻ってこれない。
だから大人は愛情を持って「ちっとこっち来い」ってするわけだな。
子どもに不快な思いをさせながらね。
不快な愛
そんな風に俺たち大人は子どもたちに不快な愛を表現しているってケースもあると思う。
でもさっき書いた通り「買って買って駄々こね」を見た記憶がない。
こいつはどう言うことだ?
なんつーかだよ。
身も蓋もない言い方をすればだ。
大人の「愛」は見抜かれているってことじゃないか?
もちろん、子どもの個性にもよると思うし、その表現方法も様々だとは思う。
ただ、親をはじめとした周りの大人の「愛」ってのを分かっている、と言うか「信じようとしている」んじゃないか?
なぜか?
自分が無力だと認識しているから。
これってさ。
社会に出て「大人」になったとしても、あんま変わんないよな。
「自分が無力」っていう現実は。
つまり、大人は自分が無力だと「悟って」いて、そのことを「愛」をもって子どもに伝え、子どもはその「愛」をそのまま受け取って「無力」な自分と言うことをアタリマエのこととして大人になっているってことか?
子どもたちには無限の可能性がある。
そんな言葉を口にしながら、俺たちは諦めているんじゃないか?
誰かが助けを求めてきたときに手を差し伸べる力を自分が持つってことを。
ヒーローになるってことを。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは子どもたちのために、自分のために、どこかの誰かの未来のためにヒーローになる覚悟を持てると思うかい?
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