我らは天を砕く力を持ちながら何もせぬ一族だ
今回は名作ゲーム「高機動幻想ガンパレードマーチ」からセリフを引用してみよう。
高機動幻想ガンパレードマーチの紹介ノートはこちら。
この物語の中に出てくる「芝村」と呼ばれる一族。この存在が自分の心を離さなくなって早14年の月日が経過した。その芝村をよく表す言葉が今回ご紹介するこのセリフだ。
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生きようと死のうと我らは芝村
我らは守る者
我らは勝利する者
この世のただ一人も不幸にはさせぬ
我らは天を砕く力を持ちながら何もせぬ一族だ。
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そもそも芝村とはなんなのか?
その問いは「ヒーローとはなにか?」という問いに近いかもしれない。
我々が日々苦心惨憺しながら生き抜いているこの世の中で常に感じ続けていること。「この世は誰のものなのか?」という疑問。
その問いには星の数ほどの答えが用意されている。
曰く、世界は誰のものでもない。
曰く、世界は優良人種のもの。
曰く、世界はみんなのもの。
そして、芝村一族の答えは、きっとこうだ。
世界は我らのもの。
ゆえに我らは我らのものが安らかであることを望む。
我らは我らのものを犠牲にしてでも我らのものを守る。
我らは世界が救われることを切望する。
究極のエゴだ。エゴも究極になると公の意思をはらむものなのか。
この考え方に自分はひどく共感したことを覚えている。
当時、すでにシステムエンジニアとしての生活を始めていた自分は、学生の時とは違う純粋な成果主義というものに酔いしれていた。
そこにあるのは人間関係といったあいまいなものではなく、どれだけの仕事をこなせたか。どれだけのシステムを作り上げたかだけにフォーカスした周りの評価があった。
自分が努力するだけ周りが自分を認めて行った。
それと同時に、どれだけ努力しても本物のプロフェッショナルの前では自分の存在がかすむことも感じていた。
力が足りていない。強くそう感じた。
だが、その力が「何に対して足りないのか」については答えに巡り合ってはいなかった。
そこで出会ったのが今回紹介したセリフだ。自分は世界を良くすることを望んでよいのだ。そう思えた。
時は経ち、40代に突入し、文字通り自分たちが今の時代をけん引していると自負するようになって、改めてこのセリフを思う。
自分は自分に敵対する者たちを含めて世界を救いたいと思えるほど達観はできていない。だが、少しでも多くの人々が幸せになれる方法を模索することは大人としての義務だとも思う。
大人とは周りの誰かよりも少しだけ多く努力する人を指しているのだろう。
周りの誰かよりも少しだけ多くの仕事をこなし、少しだけ周りのことを考え、少しだけみんなの幸せに思いをはせる。
そういう大人に自分はなりたい。
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