オモロイの外部化の意味
あんたは最近の中で一等オモロイって思えたことってどんな事がある?
ぶっちゃけオッサンともなると、並大抵の刺激だと自分の経験値の中に類似事例ってのがあったりするので、あんまし新鮮な感覚で居続けるってのがうまいこと出来ない感じがあるんだよな。
逆に、あんまりにも自分の土俵とかすりもしないような情報だと、そもそもその情報に興味を持てないので、その情報を咀嚼するって動機を持てなかったりする。
こうやって書いてみると、実に自分勝手な感覚でもあるんだよな。オモロイって感覚ってさ。
そして、自分勝手なくせに、「何かを楽しみたい」と思っていても普段から用意しておかないとすぐさま心はオモロイに対応出来るようにはなっていないと言うおまけも付く。
今回はオモロイってことを十分に楽しむための準備について考えてみる回だ。
なんか、高杉晋作よろしく「おもしろき こともなき世を おもしろく」生きていこうじゃんか。
毎日何かを書くってこと
まずもってだ。
俺みたいに何かしらを日々書いているとだけれども、当然のように「何も感じられない瞬間」ってのがワリカシ高確率で起きるわけよ。
いわゆる「ネタ切れ」ってやつだな。
いや、おそらく書きたいことも書けることもあるのよ。
それがコレを読んでくれるあんたにとってオモロイってのを確信できない感じ。
例えば最近だと政治のニュースで岸田くんのあまりの迷走っぷりに「どげんかせんといかん」とか行ったこともないような土地の言葉で考えたりするんだけれどさ。
そいつがあんたにとって「オモロイ」こととして伝える自信が持てないような感じ。
なら書かなきゃ良いじゃんって話なのかもしれんけれど、それはそれで怖いわけだ。
もう「オモロイ」が手に届かないところに行っちまう気がしちまってね。
見つけられたオモロイを疑う
で、なんとか絞り出したものを片っ端から言葉にしていくわけだ。
俺の手からこぼれ落ちる前にね。
でもそれだけだと「伝える」ってことにならないんだよな。
なんつーんだろう?
例えば見てオモロイって思った映画があったとするじゃんか。
「いやぁ、あの映画めっちゃオモロかったよ。見てみ?」
とか書かれても「はあ、そうでっか」ってしかならないじゃん。
たぶん、そこに必要なのはオモロイを分析するってことと、それを伝えるための文章を読んでもらうための工夫って2つが必要なんじゃないかって思ったりもするんだよな。
この辺は多分100人いたら100通りの答えが出るやつだとは思うんだけれどね。
読んでもらうための工夫はそれこそnoteの他のヒトの記事でもいろんな工夫が伝えられている。
そのどれでも良い。自分にあっていると感じたやり方を愚直に続けていくってことかもな。
例えば俺の毎日なんかを書くってのも一つの工夫かもしらん。
あとは、分析って言うとちっと上から目線のイケスカナイやつに聞こえるかもしらんけれど、要するに自分自身に「何がオモロイのか」を説明する感じ。
つまり一回自分のオモロイって感覚を疑ってかかってみるって感じ。
コレを経由しないと、数カ月前の自分が何をオモロイって思ってたのか思い出せなくなっちまうんだよな。
居なかった自分
このオモロイを言語化するって行為。
ヒトによっては結構忌み嫌われる行為かもしれないと思ったりもする。
なんつーの?
言語って万能じゃないからさ。
言語化した瞬間に自分のせっかく捕まえたと思ったオモロイが陳腐化していく感覚ってやつをあんたも味わったことあるだろ?
あのなんとも言えない虚しさみたいな感覚は、なんか俺たち発信者にとって「シュン」ってなっちまうやつだよな。
でも言語と言うツールを使って自分の感覚を外部化していくことに全く意味がないとは思わないのよ。
こうして俺の感覚を読んでくれるあんたもいるし、俺自身も言葉にすることで自分が気づいていなかった何かにたどり着くこともある。
そうなんだよな。
言語化された感覚ってのは、外部化した瞬間からその言語を紡ぎ出した俺の思いを超えた何かを生み出すことがあると思うんだよ。俺はね。
単純に言語によって表現されたものは、俺たちが抱えている感覚の一部を切り取っているだけじゃないってことね。
まさに言語化と言う行為で自分の気づいていなかった切り口が生まれるってわけだ。
なあ、あんたはどうだい?
あんたが紡ぎ出したその言葉。
あんたが新たに手に入れたあんたを形にしているって感覚があるかい?
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