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変わりゆく運動会

あんたは子供の頃の運動会の記憶ってあるかい?

俺はあんまりはっきりとした記憶はないんだが、かけっこはすごブル遅かったので、苦手だった記憶はある。

昨日は、俺の息子の小学校の運動会だった。見ていて俺たちの子供の頃とはだいぶ違うなぁという印象だった。

今回は、そのへんの違いってやつについてあれこれ考えてみる回だ。

時代ってやつが流れているのを感じてもらえると嬉しい。

場所取りの無い運動会

一番最初に感じた違いは「場所取りがない」ってことかな。

俺たちの子供の頃の運動会って言えば、親たちが一生懸命に朝早くから校庭の場所取りをして、ベストポジションを確保することが勝負の始まりだった気がしないか?

一等地は100m走のゴール付近。次が入退場門の脇。
そのいずれもが、子どもたちの表情がよく見えるポジションだ。

俺の子供の頃はそれほど加熱した感じではなかったけれど、それでも朝一番のそのへんのドタバタ感は覚えている気がする。

で、うちの息子が通う小学校の運動会ではそれがない。
なぜだと思う?

そもそも、場所をとっちゃダメって決まりなんだ。

校庭が狭いってのが理由なんだが、レジャーシートで家族の居場所を確保することはNGなんだ。なので、家族が観戦するのは基本立ち見。

当然、一日中立ち見ってわけにも行かないから、子供の出番のときだけを狙って家と学校を往復することになる。

で、場所がないのが理由だから、当然自転車や車での来校はNG。

かくして、半強制的な歩行を余儀なくされるってスンポーだ。

このシステムそのものは、場所取りで戦争になるよりはマシな気がするので、歓迎している。
難があるとすれば息子の出番がきちんと時間ではわからないってことかな。

演目ごとの順番は決まっているんだが、その開始終了の時刻はスケジュールには明記されていない。

まあ、小学生のやることだから、時刻通りに進まないってのは普通にあることだとは思うんだが、時刻を明記することで、うまくいっていないことが露見するのが学校としてはよろしくないってことなのかな?

なので、そのへんはある程度は勘で勝負することになる。

勘が外れると、息子の演技が見られなくなるという憂き目にあう。
この辺はもうちっとなんとかしてほしいよなぁ。

昼食が家族と一緒ではない

これも場所がないことが一つの理由なんだろうけれど、家族と一緒の昼食ってやつがない。

学校側としては、子どもたちの体力を考慮してのことっていう連絡がきていた。

一日中日光の元にいると、体力を消耗するからお弁当は教室で食べさせるってことだそうだ。

これはこれで、まあ理屈はわかる。

ただ、親はともかく祖父母にとっては、数少ない孫とのふれあいの機会なんだろうし、そのへんの考慮ってやつがほしいとは思った。

朝に子供の弁当を創るモチベーションも下がり気味だよなぁ。

でも、子どもたちのことを第一に考えたらどっちが正解なんだろうね?

家族との記憶を残すことと、実際の体力面でのケア。さらには校庭で食事をするにしても、運動会で砂埃が舞いまくっている状態での食事ってのも、実際問題で考えるといかがなものかって感じもするからな。

正解はわからないけれど、これはこれで有りだったのかもしれない。

大切なのは子供が楽しいこと

こう言う学校イベントで何が一番大切なのか?

多分子どもたちが「楽しかった」と思えることそのものだよな。

毎日の授業で、繰り返しの勉強を続けている中で、こう言うイベントがあると、それが感覚のスパイスになる。

そのスパイスは感覚をリセットして、毎日の生活に新鮮さを取り戻してくれる。それが大事なんだろう。

その意味で、うちの息子が家に帰ってきたとき。

「ただいま」

そう笑顔で言ってくれた。

だから今回の運動会は成功だった。そういうことなんだろう。

あんたはどうだい?

日々の生活での感覚をしっかりリセット出来ているかい?

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