888日連続投稿できた理由
あんたもあんたの中の思いってやつを形にしようと日々を過ごしているかい?
どうも今回のnoteで連続投稿数が888日となったようだ。
まあ、我ながら続いてきているなぁって感じだね。
で、少し振り返ってみると繰り返し同じことを書いている内容がある。
何かって?
俺たちヒトには自由意志はないってことだ。
何?矛盾してないかって?
このnoteをオマイが書いているのはオマイの自由意志なんじゃないのか?
どうやら違うらしいんだよ。
俺がこのnoteを続けているのは俺の意思が為せるモノじゃなくて、他の要素が根っこにあるってことらしいんだ。
今回は俺のnoteを題材にとって俺たちヒトが行動を続ける理由について考えてみる回だ。
ちっと禅問答みたいになっちまうかもしれないけれど付き合ってくれよな。
俺たちを動かしているもの
何度も書いて耳タコで申し訳ないけれども、ヒトには自由意志はない。
この辺はサピエンス全史が俺たちに教えてくれていることなんだけれど、俺たちがどうしてもその支配から逃れられないものがある。
それが感情だ。
この感情ってのは実に厄介で、俺たちは感情が沸き起こってくる事そのものをコントロールできない。
その感情が沸き起こりやすい外部の刺激を選択することは出来るかもしれないが、同じ外部刺激でも感情が動いたり動かなかったりする。
さらには、外部刺激すら必要としないで感情が動くことも有る。
あんたにも突然分けもなく悲しくなったり怒り始めてしまった経験があるだろう?
だからこの感情を何とかする自由意志ってやつを俺たちヒトは持てないって理屈なわけだ。
俺がnoteを続ける理由
でもさっきも書いたとおり、感情を呼び起こす外部刺激についてはある程度コントロールが出来る。
だからこそ、俺たちは映画館に足を運ぶし、スポーツ観戦をするし、旨い酒を飲んでいるわけだ。
で、このnoteを書くことはそう言う感情を呼び起こしている要素があると思うわけよ。
なぜって?
まず第一に、自分の中の感覚を言語化することによって、その言語が俺にとっての外部刺激になるからだ。
進撃の巨人オモロイなぁって感覚を言葉にすることで、自分の中に形をなしていなかったものが形になるって感じだね。
これってなにげに色んな要素と絡み合って自分の中を整理することになるので、自分の考えを他のヒトに伝えやすくなるって意味もあると思うんだよな。
そして第二に、その言語化された感覚をあんたとシェアすることで、あんたからも外部刺激を貰えるって要素だ。
これってなにげにでかい。
自分の感覚の延長線上にあんたの感覚を接続したような感じを受けるんだよね。
外部刺激から俺が呼び起こしたい感情
で、それらの外部刺激から俺はどんな感情を手にしたいのか。
一言でいうと「感動」かな。
感動ってのはなにも喜び楽しみだけじゃなくて、悲しみや怒りに伴って起きることも有る実に難しい感情だと思うんだ。
でもさ、この感動って究極的には俺たちが生きる意味そのものじゃないか?
家族の笑顔に感動し、友人たちの活躍に感動し、物語のテーマが俺たちを感動させている。
これを感じることって、考えてみると俺たちの行動の理由は何らかの形でそこにつながっているような気がするじゃんか。
俺たちは自由ではない。
でも感動をすることは出来る。
その感動を味わう瞬間を増やすために俺たちは日々の行動をしている。
その行動の一つがこのnoteを書き続けているってことなわけだ。
まあ、もちろんそれが正解なのかはよくわからないし、いつ何時noteをかけなくなる日が来るかもわからない。
でも、まあ、少なくとも今まで書いてきて感動をした経験は1回や2回じゃない。
ならさ。もうちっと続けてみようかって思うんだよ。
なあ、あんたはどうだい?
あんたはあんたが感動するためにどんなことをやっているんだい?