良いヒト、悪いヒト、愛するヒト
あんたは自分が今まで受けてきた愛情ってやつについて考えたりするかい?
実際、多くの立場があるから、まるで愛情を感じることが出来ない状態で子ども時代を過ごしたヒトもいれば、逆に愛情という感情をエゴとしてしかとらえられなかったヒトもいるんだと思う。
俺はワリカシ感情って意味だとシンプルだからさ、誉められりゃそれだけでハッピーになったし、叱られればそれだけで「なんで俺ばっか」みたいにふてくされていたと思う。
じゃあ、俺の両親は子育てについて比較的楽だったってことなのか?
まあ、俺の場合ガキンチョの頃から理屈っぽくて、よく「屁理屈をこねるな!」って叱られてたっけ。
その意味では両親は苦労したんだろうと思ったりもする。
今回は家族の愛情の形ってのを考えてみる回だ。
まあ、正解なんてない話だけれど、ちっとばかし付き合ってくれよな。
自分の子ども時代
さっきも書いた通り、俺は実にこざかしいガキンチョだったんだと思うんだよ。
筋が通らない話をされたなら、教師だろうが両親だろうが友人だろうが学校を占めている番格だろうが、ところ構わず突っかかっていってた。
自分が正しいと思って、その事を全く疑うことなんてなかった。
実際のところ、正しいって思われることはあったようにも思う。
その周りの反応が俺の考えってのを増強させていたってのはある気もする。
ただ、今の自分がガキンチョの俺と会話することが出来るとしたら、若干違う視野ってのを共有できるかもしれないとも思う。
なに?そんなの誰だってそうだろうって?
まあ、そりゃそうだ。
言いたいのは、ガキンチョの俺は自分の視野の狭さってのを気づくことができていなかったってことね。
今の自分
で、当然と言えば当然なんだけれど、ガキンチョの頃の自分と今の自分ってのは同じヒトなので、本質的には自分の視野の狭さってのはどっかに残っているって思うわけよ。
なんかのニュースを眺めちゃぁなんかしらの不満を感じるポイントを見つけちまう。
そのニュースの向こう側にいるヒトの都合ってのを想像しきることなんてデキッコナイスだしね。
それでも、そのデキッコナイをなんとかしたいって感情だけは残っている。
なので、考える訳だけれども、その考えるという行為は現実的には弊害も産み出すような気もする。
例えばさ。
たぶん、俺は息子や妻に「考えろ」と強制していると思う。
息子がなんかの作品を眺めながら「このヒト良いヒトだよね」なんて言われると、条件反射で「良いヒトってのはどういう意味なのか」って問いかけちまう。
良いヒトってのは「自分にとって都合が良いヒト」って意味でとらえていないか?ってね。
例えば、ある政治家が「政府支出を増やしていかないと国民が得る所得が増えていかない」と主張しているとする。
「おお、その通りじゃんか」と俺は思う。
それと同時に「原子力発電所は再稼働しちゃダメだ」と言っていたりするとする。
「いやいや、そしたら電力コストは上がりっぱなしになっちゃうじゃんか」と俺は思う。
この場合この政治家は良いヒトなのか?
俺の考えと完全に同じヒトなんて存在し得ない。
それでも、ヒトとヒトの関係として何かを調整して妥協してお互いの最適解ってのを見つけようとするってのが現実の世界じゃんか。
そこにいるのは良いも悪いもない。
ただヒトがそこにいるって現実だ。
思うにね。
俺がそう言う考えに至ったのは、ガキンチョの頃に受けた愛情が俺にそう考えさせたってことなんじゃないかって思ったんだ。
ヒトってのは理由もなしに誰かのことを愛することが出来る。
それを現実として俺が認識しているからこそ、良いヒト、悪いヒトなんてものについて懐疑的になっているんだと思ったわけよ。
逆説的に言うと、子どもの頃に「愛情を受けた」って実感がないヒト(実際に愛情を受けていたかどうかじゃなく感じられていたかどうか)は、自分にとって都合が良いか悪いかで良いヒト悪いヒトって分類をしちまうってことなのか?
なあ、あんたはどう思う?
良いヒト、悪いヒトって誤解から俺たちはどうすれば逃れることが出来るんだろうな?
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