言葉の癖
あんたはセルフトークって言葉を聞いたことがあるかい?
俺はとあるnoteで初めて知ったんだよね。
まあこさんは「人生を楽しむ方向に導く工夫のやり方」を教えてくれるヒトみたいなんだ。
世の中にはいろんな活動をしているヒトがいるもんだね。
で、セルフトーク。
どうも自分の気持ちを言葉にして、その言葉のちょっとした言い換えをすることで気持ちがぐっと上向くって工夫らしい。
はは~ん。
となると、俺の日々のnoteもセルフトークみたいなもんなのかもしれないね。
まあこさんのセルフトークの説明を咀嚼してみようって回だ。
まあ、俺のお勉強にちっと付き合ってくれよな。
セルフトークに現れる考え方の癖
セルフトークってのは別に俺のnoteみたいに発信するってことじゃなくても、ただ言葉にして思うこともセルフトークって言うらしい。
独り言みたいに声に出しても良いらしい。
つまりは意識してやるものってよりは、自然に出てくる言葉そのものを指すってことなのかな?
で、その言葉には考え方の癖が現れてくるんだそうだ。
なるほど。
例えば俺のnoteを読み返すとそう言うくせが出てくるってことなんだろうな。
ちっとランダムに見返してみるか。
……なんつーんだ?
こう、無理矢理にでも理屈をつけて世の中を客観的に理解しようともがいている姿が見えてくるね。
やっぱこうしてみると、俺にとって理屈ってのは宗教みたいなものなのかもな。
理屈を経由すれば多くのヒトとわかり合えるみたいな。
これが俺の考え方の癖ってわけだ。
ポジティブとネガティブ
上の俺のnoteを見返してみて思うのが、俺の考え方の癖ってネガティブでもポジティブでも無いように見える。
ってか意識的にニュートラルを保とうとしているのが俺の癖ってことなのかもしれない。
ネガティブを避けたいってのは自然な感覚だとして、なんでポジティブを避けようとしてしまっているんだろう?
きっとそこには俺の理屈への信仰ってのがあるんだろう。
客観的に誰にでも説明できる事実を知りたい。
逆に言うなら自分の気持ちとか感情とかは客観的に説明できないので、あまり価値を感じない。
もちろん泣けるコンテンツを眺めたあとに「あれ、泣けたよね~」くらいのことは話すんだけれども、泣けたことに対する共感を求める前に、なんで泣けたのかって分析を話し合うほうが好きな気がする。
共感も欲しいのは間違いないけれども、それよりも欲しいのはあんたの納得ってわけだ。
なるほど。これが俺の癖か。
ニュートラルを必要な状態に言い換える
とは言え、これは俺の癖に過ぎないので、他のヒトに伝えるときには変換をする必要があるケースもあるだろう。
落ち込んでいるヒトにまず必要なのは共感だろうから、まずネガティブに寄り添った上でその気持を上向きにする共感へと変えていくってのは必要なことだろうしね。
必要なのは自分の言葉が今どの状態にあるのかってのを認識するって事なんだろう。
俺の癖がニュートラルに持っていくってことだとすれば、意図的にネガティブに表現したりポジティブに変えたりってことが比較的やりやすい気もするしね。
自分の言葉の状態がわかったなら、次は相手の言葉がどの状態にあるのかを観察する。
そうすることでその気持ちに寄り添う言葉ってのが初めて見つけられる気がするんだよ。
ただね、ネガティブって偏りやポジティブって偏りを見ると、どうしてもニュートラルにしていきたいって「欲求」が俺の中に生まれちまう。
こいつが俺が多くの共感を生み出せていない原因ってことなのかもしれない。
ネガティブな状態のヒトに「お前間違っているよ。事実はこうだよ」なんて言っても立ち直れるわけないもんな。
だからこそ意図的にネガティブな言葉を使って共感したあとじゃないと、ヒトは立ち直れないってわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは俺たちの言葉をコントロールして、誰かを立ち直らす手伝いが出来るようになると思うかい?