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正しさの呪い

あんたもフェイクニュースがどうのこうのって話題を目にすることがあるかい?

実に多くの情報が俺たちを通り過ぎていく世界観で、その情報の真偽ってのは結構重要に思う要素だよな。

ところが、この真偽ってのは実に難しい。
間違ってはいないかもしれないけれども、特定のポジションで語られた「真実」によって俺たちが「誤解」をするなんてのは普通に起きる話だもんな。

今回は俺たちを取り巻く情報ってやつが俺たちに及ぼしている影響について考えてみる回だ。

自分たちの正しさってのを求めてしまう自分を改めて見つめてみようぜ。

ロシアで分断されている意見

例えばこんなニュースがあったりする。

あんまり音楽業界に詳しくないので、このボリスさんのことは知らなかったんだけれども、どうもウクライナがよろしくないので、電気止めちまえって主張をなさっているようだ。

なんつーか、俺たちの感覚で行くと、この発言は「いかがなものか」案件になっちまうと思う。

だって戦闘を仕掛けたのはロシアだし、民間人に攻撃もしているし、なんなら学校へミサイルを打ち込むとか正気の沙汰じゃないって思うじゃんか。

でもさ。きっとボリスさんは本気でそう言う攻撃のニュースを「ウクライナの自作自演だ」って思っているんだと思うんだ。

逆に言えば、「ウクライナ軍が自国民の建物にミサイルを打ち込んでるなんてありえない」って俺たちは本気で思っている。

どっちも本気なんだよな。

問題はこの異なる状況認識を持ったヒトがお互いの意見を全く受け付けないって状況が発生しているってことなんだよな。

思考停止をせざるを得ないヒト

この意見の相違によるコミュニケーション不全ってのはロシア国内でも結構な問題になっている様に伝わってくる。

見ている情報によって、当然だけれども状況認識は異なってくる。
前提となっている情報が異なっているんだから、当たり前だよな。

でもさ。違う意見があるんだったら、自分の認識ってやつを少しでも疑うってことになりそうなもんじゃんか。
でもそうはなっていない。

ボリスさんは「ウクライナが悪い」という認識だし、俺たちは「ロシアが悪い」って認識を変えようとしない。

なぜか?

きっとだけれども、最終的には「正しさ」ってやつを俺たちは証明することが出来ないからなんだと思うんだ。

だって「正しさ」なんてものは未来永劫変わらないものではありえなくて、その時々や立場によって変わっていくわけだもんよ。
客観的に観測可能な数値で表すことが出来るようなものじゃない。

客観性が担保出来ない以上は、その「正しさ」を信じるって状態はある意味で宗教的な倫理観とつながる話になる。
つまり「なぜ正しいのか」は証明される必要すらなくて「正しいから正しい」でしか無いんだ。

「正しさ」の違いはその正当性を他人に説明できない以上、相容れないって要素がどうしても出てくるんだよな。

接点を考える

じゃあ、俺たちはボリスさんと分かり合うことは不可能なのか?

まあ、世界的な人物であるボリスさんと自分が会話出来るようなことは起きないと思うけれど、それだって共通の価値観ってのはどっかにはあると思うんだよ。

例えば「世界全体で見たときにヒトの行動が原因で亡くなってしまうヒトは少ないほうが良いよね」ってような話にはボリスさんもイエスという意見を持ってたりするんじゃないかな。

だとすると、そう言う根っこの部分を前提として会話する。
これしか対話をすすめる方法って無いんじゃないだろうか?

「お前は間違っている」
「俺は正しい」

これだけだと議論にならない。
だからこそ、接点を見つけるための工夫をすることが俺たちには出来るはずじゃないか。

でも「正しさ」って要素はどうもヒトという生き物にとって揺るがし難いものらしい。
自分の「正しさ」を否定されたときに、ヒトはどうしても反発という反応をしてしまう。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこの「正しさの呪い」を俺たちの意思で封じ込めることが出来ると思うかい?

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