3つの幸せ
あんたにはどんなときに幸せを感じているんだろうな?
こんな素敵な企画をやってくれている御仁がいたんだ。
ちなみにももまろさんのこの記事からたどり着けた。
いつもももまろさんありがとうね。
しかしお二方ともスキのゲット数がエグいよな。
きっと俺はあんまり検索に引っかかってないんだろう。そういうことにしとこう。
※最近ダッシュボードあんまし見てない
で、企画に乗っかってみたいと思ったんだけれど、記事を埋め込む?
これで良いのかな?
さて、今回は俺の小さな3つの幸せを考えてみる回だ。
ちっと、一緒に自分にとっての幸せってなんなのかを考えてみようぜ。
その日僕はひどく幸せだと気づいた
この言葉どっかで見たこと無いかい?
たしか西原理恵子さんの「ぼくんち」で読んだんだと思うんだけれど、こんな感じの言葉だった。
前後の話の流れは綺麗サッパリ忘れちまっているんだけれど、この言葉だけなんか記憶に引っかかっているんだよね。
でも検索で引っかかってこないな。たぶんセリフが正確じゃないんだろう。
でだ。
この3つの小さな幸せというお題を考えてみたときに、「3つに絞るのめちゃくちゃむずくね?」ってのがあったんだよ。
普段はあ~んなことやこ~んなことに不満たらたらに生きているくせに、いざ、自分が幸せに感じていることを書いてみなさいよって言われたら、なんつーかいくらでも出てくる感じがするんだよな。
どんだけ負の感情に心を持ってかれちまっているのかって話だ。
こんな動画を見返して、弱音を「吐く」からマイナスを取れば「叶う」になるなんてことを教えてもらっているのにね。
そして考え直してみると自分の周りには「幸せ」が無数に転がってるときたもんだ。
「その日僕はひどく幸せだと気づいた」
それが今日ってわけだな。
「泣く」幸せ
そろそろ俺の幸せを整理していこうと思うんだけれど、最初に思いついたのが「酒を飲んでるとき」とか「作品を見ているとき」だった。
なんつーか、the消費者だよな。
そこで一歩踏み込んで考えてみる。
なんで酒や作品を消費していることに俺は幸せを感じているんだ?
たぶんだよ?
たぶん、俺はこれらを消費することで普段抑制している感情ってのを自分の中で開放しているんだと思う。
この感情の開放の究極が「泣く」ってことだと思うんだよな。
なんかを見たり読んだりして涙する。
いま感じている不幸の感情を酒で薄めながらね。
世の中に存在する感動をダイレクトに感じたときの涙。
そいつが幸せってなる気がするんだよな。
「笑う」幸せ
と、同時に腹を抱えて笑う幸せってのも当然あるじゃんか。
関ジャニクロニクルの英会話伝言なんて何度見ても大笑いできるんだよな。
いやはや、横山さんと村上さん天才じゃろ。マジで。
で、こういう笑いを提供してくれるコンテンツを消費して、またもや俺は消費者として幸せを感じるわけだ。
笑ったあとのあのスッキリした感覚。
あれはもう麻薬だよな。
世界中にいろんなお笑いって分野があると思うんだけれど、日本語をネイティブに理解できることで、得られる「笑い」ってのがある気がするんだよ。
いや、英語やフランス語、スペイン語で得られる「笑い」を理解しとるわけじゃないんだけれどさ。
少なくとも今、俺は日本語で「笑い」をもらえていることに感謝してるんだよね。
「怒る」幸せ
3つ目の幸せはやっぱり感情の「怒る」だな。
ここで言う「怒る」は「義憤」って書いたほうが近いかもしれない。
もっとくだけた言い方にするなら「正義の味方を気取る」感覚ってことかな。
これさ。
今まで俺はずっとこの「正義の味方」ってのを否定し続けてきてると思うんよ。
誰かの「正義」は誰かを「悪」にしないと成立しない。
例えばひろゆきさんの「それってあなたの感想ですよね?」とかってコンテンツが世の中で拡散し続けているのって、そのやっつけるというカタルシスが求められているってのが今の現状だってことを示していると思うんだ。
勧善懲悪。現代の水戸黄門ってわけだ。
で、俺自身も実に後ろ向きなこの「義憤」という感覚に幸せを感じているんだと思う。
これはいただけない。
でもその幸せを感じている自分というものと向き合っていかないと行けないとも思うんだ。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの中にあるポジティブな幸せとネガティブな幸せにはどんなものがある?