自分の期待・誰かの期待
あんたもなにかに感動するってことがあるよな。
こんな動画を見っけたんだよ。
進撃の巨人のさ。
立体機動装置をさ。
DIYで作っちまおうってのが実にぶっ飛んだ発想なんだよな。
しかも発想の原点として「どうやってアンカーを飛ばすのか」ってところから始まっているんだ。
つまり、シンプルなコスプレとして見てくれの調整から入るんじゃなくて、実際に動作すると言うことを目的に始まってるんだよね。
で、当然ながら最初はうまく行かない。
単純にアンカーの先端を発射するだけでこんなに難しいんだな。
最初に用意した噴射機だと威力が足りなくて、威力をました装置を片側二連装、合計四連装にして、ようやくロープをつけた状態で木製の板に刺せる状態になった。
アンカーが出来た後も工夫に次ぐ工夫だ。
ロープを巻き取るためのモーターも当初想定していたものではパワーが足らない。
動画ではあんまり表現されていなかったけれど、巻取りのときに絡まないようにする工夫もしていたんだと思う。
そういう工夫に次ぐ工夫で立体機動装置で二階の窓に飛び移ることに成功するわけよ。
何かすげー感動したんだよね。
ちと、動画見てみ?
今回はヒトの工夫ってやつについて考えてみる回だ。
ちっと、俺たちが日々やっている工夫を振り返ってみようぜ。
俺たちの工夫
最初に書いた動画のヒトみたいに物理的な工夫ってのは俺の場合はあんまりやってないと思うんだ。
何しろ手先が不器用でさ。
DIYにしろプラモデルみたいなことにせよ、絵を描くようなこともほぼ出来ない。
立体的に造形を認識できるヒトってスゲーよな。
で、そんな俺はシステム屋なんてのをやっているわけで、物理的な工夫とは別の形で想像力を駆使していく必要があるんだよな。
どうやったら顧客の利益を生み出す業務が成立するのかみたいな経営的な観点もそうだし、日々の顧客のニーズに対して効率的に費用算出を出来るための仕組みづくりみたいなこともそうだ。
そうかと思えば、チームメンバーがどうやったら効率的に作業を進められるかみたいな組織づくりの工夫みたいなのもある。
たぶんだけれど、どんな仕事でもそう言ういろんな工夫ってのが求められていると思うんだよな。
いや、求められているって言い方はちと違うか。
求めてるんだよな。自分自身が自分に対して。
自分自身への期待
最初に紹介した立体機動装置の動画を見てもさ。
あれって誰かの依頼を受けて作ったってもんじゃないと思うわけだ。
ただ「自分が作ってみたい」ってのが入口だったと思うんだよな。
もちろん、動画制作による収益とかは結果としてあると思うけれど、「どこが入口なんだ?」って問に対する解は「やってみたい」だと思うんだよ。
ガキンチョの頃なんてさ。
そういう「自分自身への期待」ってので自分の中身が満たされていた感じが残ってないか?
あれをやってみたい。
これをやってみたい。
そんなシンプルな欲望とそれを実現する自分への期待。
そんな感じじゃなかったか?
誰かからの期待
ところが、大人と言う立場になってみるとだ。
期待するヒトが変わってくる。
自分自身じゃなくて、周りにいる誰かってなってくるんだよな。
まあ、そりゃそうだ。
ヒトと言う生き物が社会と言う仕組みで生きる以上は誰かの期待に答えることで生きるってのはごく自然な流れだもんな。
ただ、この自然な流れによって俺たちは「自分自身への期待」って感覚を見失っちまっているなんてことがある気がしないか?
だってよ?
あんたは今、「何を実現したい?」って問われたらだよ。
十中八九、今の仕事で何を実現したいかって考えるじゃん。
つまりは誰かの期待に答える方法を息をするように自然に考えているわけだよな。
そこには自分自身の思いと言う入口はなくて、誰かの期待と言う入口の先に自分自身の思いと言う「手段」を置いているってわけだ。
いや、それが悪いとは言わない。
ただ、あんた自身の期待ってのも大切なんじゃないかって思うわけよ。
なあ、あんたはどう思う?
あんたの心にしまわれている何かを開封する方法がありそうかい?
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