特殊性に対する俺たちの振る舞い
あんたは自分の子ども以外の子どもとやり取りするってことあるかい?
俺自身はたまに息子の友だちが遊びに来るくらいで、あんまり息子以外の子どもと触れ合う機械ってのはないんだよな。
でだよ。
最近、妻が小学校の講師ってのをやり始めたんだけれども、その講師を勤めているクラスが昔で言うところの特殊学級ってやつらしい。
話を聞いていると実にバラエティ豊かな生徒さんがいるっぽいんだよな。
今回はそんな子どもたちの個性を感じつつ、その個性とどう向き合っていくのがみんなを幸せに出来るのかを想像する回だ。
ちっと、ヒトとのやり取りってのを眺め直して見ようぜ。
ボキャブラリーが極端に少ない子ども
妻の感想というか体験談を聞いていると、どうやらものすごくボキャブラリーが少ない子どもがいるらしい。
先生だろうがなんだろうが「お前」とか言っちゃう感じらしい。
SPY×Familyのアーニャみたいな感じ?
いや、こんなに可愛いのかはしらんが。
で、「お前じゃないよね?」って語りかけて「先生」って言ってくる感じらしい。
これさ。
こんなわかりやすいケースじゃないかも知らんけれど、俺たちの職場でも言葉がたらんヒトって少なからずいるじゃん。
って言うか、俺自身が言葉が足りてない感じもする。
俺のことは一旦脇においておいて、俺以外のヒトに言葉が足りないって思うときって、結構高頻度で感じることがあるんだよ。
あ、このヒト頭良すぎるんだなって。
頭が良いから他のヒトが積み上げるプロセスをすっ飛ばして言葉にする。
そのために他のヒトが共有するために必要とする言葉をすっ飛ばして「分かっているもの」として会話してしまう。
そのことで聞いている側としては「あれ?何の話ですっけ?」みたいになっちまうことも普通にあると思うわけよ。
でさ。
この「お前」としてしか二人称を呼称できない子どものことを考えてみるとだよ。
もしか、めちゃくちゃ頭が良いって可能性もあるじゃんか。
単純に言葉というインタフェイスを最も効率的に使いたいって感じての発言なのかもしれない。
でもだよ。
そんな子どもの「特殊性」について大人は評価する手段を持てていない。
なので、大人としてはそんな子どもを「矯正」しに行くってことを求められる。
これってどんな意味を持つんだ?
特殊性を受け入れられない意味
いみじくもだよ。
俺が「頭の良すぎるヒト」って表現を使ったわけだ。
これはつまるところ、俺自身が「異端者」を排除したいって感覚を持っているって言うことに他ならないよな。
そう言う表現をしてみて、俺が「異端者」を排除したいって思っているのをすぐさま受け入れることは難しかったんだけれども、たぶんその感情が俺の中に起きたってのは現実なんだろう。
それが世界に価値を提供する個性であっても、「すぎる」個性は俺の中で違和感を持っているってわけだ。
なんで?
色々考えてみたけれど、結局のところ俺が日本人だからってことなのかもしれない。
どう言うことだって?
日本ってさ。
災害がめちゃくちゃくるじゃん。
台風も地震も噴火もさ。
その都度、俺たちは助け合いの精神で困ったヒトを助けるわけじゃん。
その時によ?
「すぎる」ヒトに頼れるか?って話よ。
災害時に協力できるヒトってさ、なにかに特化した能力を持ったヒトよりも、多くのヒトと連携して結果につなげられるヒトじゃんか。
いや、たしかにとんがった能力ってのは必要だと思うよ?
それよかよ?
災害が起きたときに求められる能力ってコミュニケーション能力じゃんか。
言い方変えれば共感能力じゃんか。
その共感するってことに対してだよ。
いっちゃん障壁になるのって「特殊性」だと思うんだよな。
だからこそ学校という機関ではその「特殊性」ってやつを排除しにかからざるをえない。
でもさ。
その「特殊性」ってのが「天才性」って言葉に置き換えられたりするわけだろ?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは身の回りにいる「特殊性」を持った子どもたちとどう向かい合ったら良いんだろうな?