えんとつ町とオンラインサロン
あんたも同調圧力ってやつを感じながら生きているかい?
この間、こんな記事を書いたんだよ。
この中で、えんとつ町のプペルって物語の舞台。つまりえんとつ町は情治国家だって話を書いた。
何?情治国家ってなんだって?
国家権力が厳格に法に基づき行使されているとは言いがたく、むしろ感情論に大きく左右され、世論や国民感情に沿うような形で行政や司法の判断が下されている、といった印象を与える国の在り方を意味する俗な表現。
出典:上記サイト
ってやつだ。
なんでそう思ったかについてはこの間のnoteを読んでもらうとして、この情治国家って状態はあまり良いものじゃないとされている。
今回はこの情治国家について考えてみる回だ。
ちっと、俺たちの自分ごととしてこの言葉を考えてみようぜ。
情治国家の問題
そもそも情治国家の何がマズイのか?
なぜならその国が正しいとするものに理屈がないからだ。
理屈が無いゆえにコロコロと変わったりもするし、「そう言うものだから」という思考停止にもつながってしまう。
コロコロと変わったりもするから、他の国との関係もおかしなことになる。
約束していたことが守られなかったり、取り決めを守らなかったりするのが容認されてしまうからね。
今の韓国はそうだっていう意見もチラホラある。
その実態はなんとも言い難いけれども、情治国家ってものが持つ問題点を感覚的に捉えるためにはその意見を見てみるのも一つの手なのかもしれない。
えんとつ町という情治国家
ではなぜえんとつ町はそのマズイ状態である情治国家として描かれているのか?
えんとつ町は西野亮廣さんが生きているお笑い業界そのものの象徴だってことなんだろうね。
何かで聞いたことがあるんだけれども、お笑い業界ってのは忖度の塊みたいな状態らしい。
先輩の言うことは絶対。
その先輩に「どう思う?」と問われようものなら地獄が始まる。
その先輩の意見を想像し、その想像が正しいということを過去の先輩の意見から検証し、そしてその先輩が気に入るように答えなければならない。
その状態では、自分が違う意見を持っていたとしても、当然のように叩かれる。
西野亮廣という人物はその叩かれる存在だったってのは、ワリカシ有名な話だと思うわけだ。
絵本を芸人が書くってコト自体、たしかに誰もやったことがないことなので理解ができなかった。
そして理解できないものってのを嫌悪するってのはヒトの習性みたいなものだ。
で、そんなものを否定する物語。それがえんとつ町のプペルってわけだ。
えんとつ町とオンラインサロン
そこでふと考えてみる。
えんとつ町とオンラインサロンって共通点が多くないか?ってさ。
両方とも閉鎖的(他との関係を組織として持たない)って特徴があるし、法律ではなく情治が前提になっている。
何?オンラインサロンには規約があるだろって?
じゃあ、その規約の中で「サロン記事をそのまま外に漏らしちゃダメ」ってこと以外を何か意識することがあるかって言うと、俺はほぼない。
もちろん、反社会的なことはしちゃダメって思うけれども、それはオンラインサロンの規約に基づいて考えているんじゃなくて、日本国民として考えていることだ。
仮にえんとつ町とオンラインサロンが同じ様な場所だとすると、なんたる皮肉なんだろう。
西野亮廣さんが否定した情治の世界を西野亮廣さん自身が作り上げているってことになっちまうもんな。
おそらく、この考えは俺の偏った見方に過ぎないとは思いたい。
ただ、あんまりにも共通点が感じられてしまったので、この考えは今の所は俺の感覚として成立してしまっているんだよな。
だとしたら、俺たちはどうすれば良いのか?
多分、俺たちは法という縛りがないコミュニティの中で「それは違うからこうしようよ」と言う意見を自由に言い合う事を認め合わないといけない。
すべてのヒトがルビッチであることを許さなければいけない。
その意見が自分の意見と違っていても、その意見を潰しに言ってはいけない。
その意見があるという前提で、その意見と常に向き合っていく覚悟を持たないといけない。
それは言い換えれば自分が異端であることを恐れてはいけないってことなのかもしれないな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはコミュニティの中で他者に対して否定と肯定を同時にすることが出来ると思うかい?