見出し画像

[表現すること]書くという魔力[その意味]

あんたは自分の表現が認められたなんて経験をどれだけしてきている?

絶妙に企画参加要件に外れてて気付けなかったけれど、そうたいさんが俺が前に募集した
#ミヨコそこに座んなさい
企画にのっかってくれていたんだ。

………えっと乗っかってくれてるんすよね?いいんすよね?
一応参加表明するためには、元企画の記事を引用(リンクしといてね)ってのがあったんで気がつけなかった。
申し訳ない。

でだ。
文章でも音楽でも何でも良い。
表現するのって実にしんどい。
何がしんどいって自分が表現したものを読み返してみたりしたときに、そのしんどさってのが如実に現れる。

「何言ってっか分かんねぇよ!!」

と昔の自分に言いたくなるのと同時に、今の自分にも同じことを言いたくなるからだ。

それをそうたいさんは「針のむしろ」と言う言葉にしたんだろう。
いかにも痛そうだ。
アイアン・メイデンくらい痛そうだ。

何?アイアン・メイデンってなんだってだって?
よ~し、そこに座ってシャーマンキングを読み直せ。
#言うほどシャーマンキングに思い入れは無い

今回はそれでも自分の表現ってのをやめない理由を無理やり言葉にしようとしてみる回だ。

ちっと、表現と反応ってやつについて考えてみようぜ。


大人の感情表現


例えばハルコの恋って俺の大好きなコミックエッセイがある。

何がスキなのかって改めて聞かれると言葉にならんのだけれれど、なんつーんだ。感情って素敵だよなって思うわけよ。

何度か書いている通り、ヒトってのは自分の感情をコントロールすることは出来ない。
湧き上がってきちまうもんだから、その感情が出てきたあとから「大人」はなんとかそれを処理するわけだ。

でね。
そうたいさんの「針のむしろ」と言う感情も「後付で」なんとかしようとした大人の涙ぐましい努力なんだと思うんだよ。

後付の鉄人

で、その後付ってのは本来だとものすごい労力を要するもんじゃん。
なんなら最初から計画していたものがうまくいきませんでしたって謝っちゃうほうが楽なくらいだと思う。

そして、その後付の達人ってのが世の中にはいる。

富士鷹ジュビロこと藤田和日郎さんだ。

からくりサーカスを代表としてこのヒトの表現って、「いかにオモロイを作るか」から考えるから、「どうまとめるか」はあとから考えるってんだよね。

しかも、そのまとめ方ってのが「はじめから考えてたでしょ?」ってレベルでまとめられる。

からくりサーカスを読んだことのあるあんたならわかるかもだけれど、あの話を書き始めた時は自動人形オートマータって概念すら無かったのに、あそこまでまとめ上げてくるかって思うやつだ。

そのヒトの書き方

で、そうたいさんの記事を読むとだよ。
「私には私の書き方があると思う」という引用をしてくれていたんだ。

ハルコの恋の久保マシンさんにもそうたいさんにも俺にだって「書き方」があるわけだ。

いや、ぶっちゃけね、他のお二人に比べると表現に対する影響力があんまない、ってかほぼ無いわけだけれど、俺だって何も考えんで文章にしているわけじゃないんだぜ?

言いたいのは「個性」ってやつだ。
その「個性」をオモロイと思うヒトもいれば、そもそもタイムラインにも検索にも引っかからないで埋もれていく表現もある。

恐ろしいのがその2つともが「ヒトの意思を経由しないで選別されている」ってことだと思うんだよ。

いや、ヒトの意思を経由したって恐ろしいことには変わりないんだけれどさ。
たださ。
なんか嫌じゃん。
自分の表現がシステム的に処理されていくのって。

いや、それを言うならオマイはnoteってシステムで表現してるだろうがって話になるけれどさ。

言いたいのは、「誰かの表現を評価する」のがこれからどんどんヒトの手を離れていく世界が広がるんじゃないかってことね。

ヒトの手を離れて自分の表現が評価されること。
ヒトの目で評価されて「針のむしろ」に包まれていくこと。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどちらの地獄が「まし」だって思うと思う?

いいなと思ったら応援しよう!