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いいヒトである意味

あんたは「いいヒト」でいたいって思うことがあるかい?

俺なんかはビビリだからさ。
常日頃からいいヒトでいたいわけよ。
でないと自分の居場所が無くなっちまうって怖さを感じちまうからね。

でもこれってみんなおんなじなんかね?

このいいヒトでありたいって感情の理由がさ。

今回はいいヒトでありたいって感情についてちょっと突っ込んで考えてみる回だ。

ちっと俺の精神世界の散歩に付き合ってくれよな。

ヒトが怖くなかったワカゾーの俺

俺がワカゾーの頃を思い出してみると、実に攻撃的な人格だったと思う。

学生時代の頃は、相手をやり込めることが自分の義務みたいに思ってたような気がする。

自分が間違っていると思ったときには相手が教師だろうがなんだろうが立ち向かい、大学の授業での講師の先生に「理屈が通ってない」と生徒たちの前でこき下ろしてたりもした。

社会に出てからもそれは続いて、顧客に向かって「それは違いますよね」とか普通に言ってたんだよな。
その抜身の刀みたいな言動が原因で顧客に出入り禁止を食らったこともあった。

今、考えると空恐ろしいよな。

それで受注止められたらどう責任取るんだって話だ。

思い返すと、やっぱその時の俺はヒトが怖くなかったってことなんだと思うんだ。

なんで怖くなかったのか?
ヒトが出来ることをきちんと把握できてなかったってことなんだろうな。

仕事にかかわるヒト

で、そんな風に仕事をこなすうちに、だんだん仕事ってのがどうやって回っていくのかってことを体感的に感じることが出来るようになってくる。

営業のヒトが足を使って顧客との信頼関係を構築して、その信頼関係の先としてRFP(提案要求書)を勝ち取り、そのRFPに書いてあることをシステムエンジニアと営業がタッグを組んで読み取り、魅力のある提案を作り上げるため必要な製品やチームをかき集め、それを顧客に伝わるポイントに絞って資料化し、そのプレゼンを顧客に向かって行い、そのプレゼンを受けた顧客がその上司にさらなるプレゼンを行い、決裁権を持つヒトが承認してようやく仕事が始まるわけだ。

もう、なんつーの。

ワカゾーの俺が想像出来ていた関係者のヒトを遥かに超えるヒトが関わっていたわけだ。
ワカゾーの俺にとっては仕事仲間と顧客の担当のヒトと営業くらいしか見えてなかった。

顧客の顧客だとか、その先の顧客みたいに自分の仕事が無限にヒトの関係を経由して影響するもんだと思えてなかったんだよ。

その感覚が俺の中に生まれたときに俺は怖くなったんだよ。
ヒトが。

いいヒトでいたいわけ

ヒトが怖くなった俺は徐々にヒトへのあたりが弱くなっていった。

ビクつきながらヒトと相対すようになり、そのあまりの恐怖感によって精神的に不調になったこともあった。

そんなおっかなびっくりな生活を送りながら、ふと気づいたんだよね。

「優しくしたヒトは優しく返してくれる」ってことに。

昔からことわざでそのことを教わっていたのにな。
情けは人のためならずってやつだ。

言い換えれば、俺はヒトから良くしてもらいたいからいいヒトを続けているって言うすごぶるエゴに満ちた動機でいいヒトでありたいと思っているってわけだ。

ただね。

あんたにもし「ホントにそれだけか?」って問われたら、言葉に詰まる気がするのも事実なんだよ。

そうなんだよな。
いいヒトってのは「自分にとって都合のいいヒト」って意味を結構含んでいると思ったりする。

そう考えると、俺は俺に都合のいいヒトを求めているんだっけって話になる。

すごい広い意味ではそれも間違ってない気もするけれど、狭い意味では違っている気もする。

例えば、眼の前で誰かが落とし物をして、それを拾ってあげたとする。

その拾ってあげるって行為をするときに、相手からなんか見返りを求めるか?
「拾ってやったんだから3割よこせよ~」とか小学生バリに言うやつなんて見たこと無いべ?

落とし物を拾ってもらったヒトは笑顔で「ありがとう」って言うだろう。

この笑顔と言葉。
それこそがいいヒトであった報酬なんだよな。

そうか。
俺たちは幸せをシェアするためにいいヒトでいたいってことか。

なあ、あんたはどう思う?

どこかの誰かの未来のために俺たちはいいヒトであり続けられると思うかい?

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